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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。社会教育士。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。https://note.com/bandai_gradation/  

■今も、変わらないな…。

■今も、変わらないな…。

HONDA Gorilla  こういうのにも惹かれる

 

シルバーウィーク、だそうな。

この言葉、最近のものかな?以前はそんなことは言っていなかったような。

 

それはそれとして。

今日はやっと晴れました。よかった。

この日は、バイクの定期点検の日で、この日を逃すとまたいつ行けるか分からなかったから、ここ数日天気予報を気にしていました。

 

走っていると、明らかにもう空気が違います。

匂いが、ちがうよ。

それをダイレクトに感じることができるのが、体がむき出しのバイクのよさ。

 

この乗り物、ふつうに考えれば

(なんで乗るの?)

ってものですね。

夏は暑いし、

冬は寒いし、

荷物は積めないし、

雨が降ったら濡れるし、

雪が降ったら乗れないし、

(ほぼ)一人乗りだし、

転んだら危ないし。

 

なんでこれ?って感じですね。

 

でも、だからいい。

私は、一人で走るのが好きだから、まあ、勝手きまま。

そこがいい。マスツーリングは、ちょっとご遠慮しますって感じです。

 

 

思い出した。

子どものころも、そういえば、意味もなく自転車で遠出していたなあ。

自転車なのに、スピードメーターとか付けていたっけ。5段変速とか、ガチャガチャするのも好きだった。

今と、変わらないな…。

 

高校の頃は、自転車で日本一周することを考えついて、けっこう本気でいろいろ調べていたっけ。

 

なんてことを思い出していると、

んん?バイクで日本をぐるっと周りたくなってきたぞ…。

 

言葉にしちゃったから、なんかやりそうだな…どうかな…汗。

■学校は誰のもの?

■学校は誰のもの?

いす

 

 


この問い。

ある本を読んでいて、頭に浮かんだのは

「学校は誰のもの?」

 

教科書的に言うなれば、子どものもの、かもしれません。

一方で、設置者という点で見ると、市町村のもの、でもあるかも。

もちろん、保護者と子どものもの、地域のもの。

そして、そこで子どもと一緒に過ごしている先生のもの、でもあるでしょう。

「みんなのもの」

が落ち着くけれど、かなりぼやけます。

 

ところで。

「学校は誰とつくる?」

と言えば。

それが、上記で出てきた「みんな」になっているのかな。

 

翻っていえば。

「私はそこにどう関わっているか?」

ってことでもあります。

 

「つくる」と「いる」は違うのか。

「いる」ことだって、その場の関係に影響を与えているのは確かだから、「いる」は「つくる」につながっている。

ただ、「いる」ことでその場をつくっているという感覚を得られているのか、はまた別な問題かな、とも思う。

 

「お客さん」にしてしまわない、ってこと。

サービスの一方的な受け手ではないってこと、かな。

そして「一方的に決められる」存在でもないってこと。

その場の決定にお互いが関与できる関係性にあるってことかもしれません。

 

最初に「学校は誰のもの?」という問いを置きました。

それを思い浮かべたときに、ずっと前に、ある方がふと漏らした、

「学校は…、『先生の職場』かな。失礼を承知で言えば。」

と、その方が言ったのを思い出しました。

いや、嘘を言いました。この「学校は『先生の職場』」という言葉は、その時以来、ずっと私の頭の片隅にあるのです。

 

「学校は誰のもの?」「学校は誰とつくる?」

もうちょっと、小さくすると

「教室は誰のもの?」「教室は誰とつくる?」
「授業は誰のもの?」「授業は誰とつくる?」

になるかもしれません。
「みんな」の中に、いつの間にか誰かを「お客さん」にしてしまう関係はないだろうか。



決定に意見が言えない

決定に無関心にならざるを得ない

サービスを受けるだけの存在になってしまっている

・・・・・
そして、先生自身も、学校をつくっている実感を持てているか。

 

 

「私も、誰かと一緒に、この場をつくっている」
と、私が感じられること。
そして、
「あなたも、この場をつくっている一人なんだ」
と、あなたが感じられる場を、私たちがつくれていること。

 

 

 

そんな場を、つくろうとしているか。

そういうことかな。

 

この前の、ことを思いながら。

 

 

 

 

■お節介がすぎる笑

■お節介がすぎる笑

たまねぎ

 

車検で、代車中。

 

ちょっと行きたいところがあって、それで「やや」、遠出。

ナビに目的地を入れて。

 

・・・・・・・・・・

 

いちいち、うるさい・・。

いっぺん言ったら分かるってば・・

わかった、わかった・・

 

え?道順以外のこともしゃべるのか・・

 

私の車は、ナビはミュートに設定しているから、いいのだけど、

コレはしゃべりすぎだ。

 

車を停めて、ミュート設定にしてしまった。

 

 

そういえば、都会の駅のアナウンスも、ほんとうるさいしなー。

お節介がすぎる笑。

 

 

 

 

■覚えていてくれたんですね、ありがとう!

■覚えていてくれたんですね、ありがとう!

 


昨日は、町内の、普段行っている小学校とは別な小学校に行っていました。

 

校内を歩いていて、低学年クラスにちょっと立ち寄ったら、

「あ、もっちゃん!」

と声を掛けて手を振ってくれる子がいました。

 

私は、

(え?誰だっけ?)

と思いつつ、

「おお!」

とか返事をしてみたけれど。

(どこかで会ったのか??)

 

 

しばらくすると、その子が一冊の絵本を持ってきて

「これ!」

「読んだよね!」

と。
「ぜったいにおしちゃダメ?」(ビル・コッター作)

www.crayonhouse.co.jp

 

それを見て

「ああ!」

と思い出したのでした。

 

そうそう、私が公民館にいたときに(当時)幼稚園生だった子たちがお散歩にやってきて、私が即興的にこの本の読み聞かせをしたことがありました。

 

その時にいたんだね!

 

なんと、覚えていてくれたんですね、ありがとう!

■ありがとう、を伝え合う

■ありがとう、を伝え合う

 

今日は、磐梯二小の公開研究会でした。

「自由進度学習」を取組の1つの柱に置いています。
先生方も子どもたちも、声のトーンが穏やかで。

その中にいること自体が心地よい空間でした。

 

それは、「心地よい空間をみんなでつくろう」と意識しているというより、もうそれが自然になっている感じなのかな、と思いました。

 

 

声を張らなくていい、張る必要がない。

緊張しなくていい、緊張を強いなくてよい。

そういうこと。

 

往々にして、

「がんばらせる」「やらせる」という使役の言葉がつく意識が働くと、他者に(それが善意からくるものであっても)「緊張」を求めてしまいがち。

それが、往々にして「ちゃんと」「きちんと」という言葉にすり替わってしまいます。

 

今日の、午前中ずっと続いた公開授業の間、子どもたちの間に身を置かせてもらった私は、何度、子ども同士の

「ありがとう」

を聞いたでしょうか。

 

「あ、そっか、ありがとう!」

「おかげで思い出せた、ありがとう!」

「なるほどね、ありがとう!」

 

子ども同士で、学びながら「ありがとう」を交わせる機会と余白。

こんな空間、なんていいんだろう。

 

「がんばらせる」「やらせる」…。
そんな使役の意識を手放したときに、これまで見えていなかった子どもたちの表情が見えたり、声が聴こえたり、言葉を受け取れたりするのかもしれません。「かもしれません」なんて書いてはみたけど、これは私の中の確信に近いです、実はね。

 

二小の先生方のこれまでの葛藤とチャレンジに心から拍手を贈りたい、そんな1日でした。

追記1

今日の私のお気に入りエピソード。

ある先生がホワイトボードを使って、何人かの子どもを集めて、

「じゃあ、これについて説明するよ、これは…」

と言いかけました。ちらっと子どもたちの顔をみて何かを感じたのかもしれません。

「あ…、この説明、いる?」

と子どもたちに尋ねると、

「いや、それは、最後確認するときで…いいかな…?」

との返答。先生は、

「そっか、ごめん、いらなかったね、じゃあ…まずみんなやってみようか。ごめんごめん」

と。

 

そんな応答関係が、なんかいいなあ、と思ったのでした。

追記2
そして、研究公開の最後の締めに挨拶に立った先生が

「研究公開の1日は、今日これで終わりました。でも多分、同じような毎日がまた来週から始まるんだよな、と思っています。」

と。

これも、またいいなあ、と思ったのでした。
先生たちも、実は楽しめているね、と。

 

■朝のあいさつ

■朝のあいさつ

おにやんま

 

朝、校門から昇降口に入るときに子ども集団と会うと

「もっちー!」

とか

「もっちゃん!」

とか言ってもらえます。

 

そのあとに、

「おはよー」

だったり

「おはようございます」

だったりがつくんだけど。時には

「今日、理科、どこでやるのー?」

だったりとか。

 

そういう、自然な1日のスタートが切れることは、私的にはとてもうれしい。

ふつうのやりとり。

「おー、元気か?」「調子はどうだー?」的な、ね。

 

 

もう、ずっと前から子どもたちには

「もっちゃん、と呼んでくれ」

みたいに言っています。まあ

「せんせい、と呼びたければそれででもいいけど、もっちゃんでいいし、そのほうがいいな」

と言っています。

 

それで、困ったことは、今までにないし。

正直、過去には

「『先生』と呼ばせてください」

なんて同僚などに言われたこともあります。そういうときは、

「そう?」

とか言いながら、なんとなく、受け流していたら、そのうち言われなくなりました。

 

それくらい「呼称」そのものは、本人同士が心地よければ、まあどうでもいい、と私は思っています。それは、「先生」と呼ばせることはよくない、と言っている訳では全然なくて。それはそれでよいと思います。ただ、私は、それじゃない方がいい、それだけのこと。

 

お互いに心地よくコミュニケーションがとれること。それが、私が一番大切にしたいこと。

 

 

 

 

 

■子ども「たち」は信頼に値するなあ

■子ども「たち」は信頼に値するなあ

水のながれ

 

 

いつかの話。

何やら、子ども同士でトラブルがあったらしい。

教室に入ったら、

「ねえ、せんせー、…」

と何人かが寄ってきて、「ことの顛末」を話してくれるのだけど。

 

とはいえ、当の本人たちから話を聞かないと、「ほんとう」のところは分からないわけで。

とはいえ、一方が「なにも話したくない」って感じでいるうちは始まらないなあ、と。

「まあ、お互いが話さないとどうにもならないなー、まあ、他のみんなはこの2人が話せるように、できたらしてあげてよ」

とだけ言って、授業に入りました。

 

で、その後、昼休みにその教室に行ってみて、みんなに

「どうや?この2人、話はついた感じなの?」

って聞いたら、

「うーん、まだみたい。」

と。

「そっかー」

とだけ言ってしばらくそのままにしていたら、ある子たちがカードゲームを始めていました。

そしていつのまにか、その揉めてた2人も混ぜ込んで、遊んでいるのでした。

 

(ほお…)

と思って、担任の先生と

「ああなったね、笑」

と目配せしたのでした。

 

まあ、そこから、でもあるけど、でもやっぱり、そういうことだよね、とも思うのでした。

子ども「たち」は信頼に値するなあ。