京都大学総長、山極寿一さんのお話を拝聴する機会を得ました。ゴリラ研究でとても有名な方。テーマは「サル化する人間社会~ゴリラから学ぶこと~」
はじめから最後まで、本当に興味深く、わくわくした時間になりました。同時に、もっともっと知りたくなったし考えたくなりました。頭のなかでいろんなことがぐるぐる回っている、そんな状態です。
サルやゴリラには「社会」があります。
だから、「ことば以前に社会はできたはず。」
とうこと。
社会、コミュニティ。
ゴリラのコミュニケーションの取り方の特徴は「挨拶」。じっと顔を合わせて見つめ合うとのこと。これはサルではできないことらしい。喧嘩になるから。
相手の気持ちを感じたりメッセージを受け取ったりできるのは、そうやって見つめ合ったり、食べ物を分け合って共に食べたり、子育てをコミュニティで協同で行ったりするから。お互いの一体感を確かめ合い信頼を構築する、そんな長い時間をかけて身に付けた感覚、共感できる土台をつくることなんだろうと思いました。
共感や信頼。それは言語がなくても十分に成立するもの。いや、むしろ言語よりそっちが先だ、と山極さんは伝えたかったように思います。
(ときに言語がそれを邪魔する?)
「言葉によって意味が付与された。コミュニケーションはそれまでは気持ちを伝えるものであった。」
確か、山極さんはそうおっしゃったと思います。
「コミュニケーションは気持ちを伝えるもの。」
今は情報があふれている時代。世界中に人に多くのことを伝えるには、もちろん言語が必要。自分の身近も、文書で残すとか、きちんと説明するとか、話し合うとか、多くの場合言語を通してコミュニケーションを図ることが圧倒的に多いし優先されている気合します。
こと「情報伝達・共有」「コミュニケーション」って言ったとき、まずイメージに浮かぶのはそういう言語を通したコミュニケーション。少なくとも私の場合はそうだったなあ、と感じさせられました。(それはどうしてか、 についても考えてみたい)
しかし、言語的なことを「コミュニケーション」と頭で考えてはいても、その本質的な部分の多くは身体感覚に頼っていることにも気が付きます。例えば声色、表情、それ以外の他者の体に表れる微細な変化。そんなところから、他者の心情や真意をはかることが実のところ多い。対面している場合には。
やっぱり、言語は補完的なものなんだなあ…。そういうものだったんだ。
説明すれば分かる、書けば分かる、対話すればわかり合える、ではない。それだけではコミュニケーションは成立しないし、進展もしない。
集団サイズに見合ったコミュニケーションを選択する、いろいろなコミュニケーションの手段を補完し合いながら、より共感できるように努める、そんなことを感じました。
言語ですらバーチャルな世界。
「安全は技術で作れても、安心はつくれない。安心は人の中にある。」
リアルな、自分の感覚を大事にしたコミュニケーション。
情報化社会だとか、テクノロジーだとか、そういうのも便利なところがあるけれど、根本的な「人間としての感覚」にもっと目を向けようと思った機会になりました。
ことば以前のコミュニケーション。ここが今回とっても気になったところ。
まだ、全然整理できていないところが、この文章にも表れています…はは(^_^;)
山極さんの著書も何冊か購入したので、もっと調べてみようと思います。