「こうさせたい」
という思いが強くなっていき、そこへのコントロール度合が増していくと
だんだん、「させたい」相手の自主性(おおくは『楽しさ』)が削がれていくような気がしている。
「こうさせたい」というのは、多くは善意であっても。
そしてそれって「指導」って名前が付いてしまうと、それが「正しい」ことになり、従わないのは「間違い」に位置付けられてしまうんだな。
なら、放っておけばいいのか、ってことでもなく。
自分の居方を、向かい合う位置取りではなく横並びの場所に置いてみる、そんな感覚。同じ方向を見ながら、
「どっちに行きたいの?」
「へえ、そうしたいんだ、面白いねー」
「こっちに行ってみない?」
時には「脱線している?」と思えるようなこともそこに付き合ってみると、意外なお宝を回収してもとの本道に戻れることも多い。
人数が少ないとやりやすいのかな?と思うけど、少なければ少ないなりに「見えすぎる」。時にコントロールしたくなるときもある。人数が多くても少なくても利点もあれば欠点もあるってことじゃないかな。
何をするか、よりも、どう居るか、ってことかなー思っていて。
「する」をなるべく削いで、「居る」に注力する、そんな感じではどうかな、と思っています。
本来主体性なんて勝手に出して来るんじゃないかな、子どもたちって。