■「期待、というよりも…」
昨日は、地元研究サークル「あすみの会」の11月例会。
最近は、学校教員だけでなくて、多様な立場の方が参加してくださることも多く、教員にとってもいい機会になっていると感じます。
今回は、保護者の方も参加してくださり、お話を聴く場。テーマは私の方で設定して、
テーマは『学校や先生に期待すること、していること』としてみましたが、これは開始早々、そもそもずれた問いだっことに気が付きました。なぜかというと、その問いを投げた瞬間、
「うーん期待という言葉がちょっと…、それよりも…」
という言葉に続けて話してくれたのは、
「期待、というよりも、私は『人と人としてかかわりたい』って気持ちです。もうちょっとフランクに話せたらな、と思います。先生方と話していると、時々『同じ話し方をしているな…』って感じることがあって。立場や組織があることは分かるんですが、本当はどう感じているのかな?って思うこともありまして。」
「やっぱりコミュニケーションの機会が少ないかな、と。だから数少ないその機会の中で、神経を集中させてその先生を知ろう、としてしまうことも。声のトーンだったり使う言葉から想像したり、『こう思っているのかな?』『こう思われちゃったかな?』とか、妄想してしまったり…」
「だから、先生と話していると不安でいっぱいになって言葉を選んでしまったり。」
なるほど。
「期待」という、他者依存的な感覚ではなくて、一緒に考えたい話したい、そういうことなんだな、と思いました。無意識に「期待」って言葉を入れた自分にも、ちょっと残念な気分に笑。
「人と人としてかかわる」とはどういうことか。または反対に「人と人としてかかわっている感じがしない」とはどういうことか。邪魔して居るものがあるとすれば、何が邪魔しているのか…。
例会の中では、
「子どもにかかわる大人こそが、心のゆとり・余裕が必要だよね。」
って話になりましたが。
「では、どうするのか」については、まさにケースバイケース。だから、この
「お互い、人と人としてかかわりたいよね!」
っていう思いを共有するところまで、聴き合う、話すことが大切だな、と思います。そういう場や時間をもつこともてる心や時間ゆとり・余裕をもつこと。
お互いに、そこを共有できていれば、少ないコミュニケーションの機会でも和やかにでやりとりできるでしょうし。
まずは、にっこり笑って
「話しましょう!」
からですね。自分から。