■「多様性」は「包摂性」と、セットだな、やはり。今ここ。
本日はこれに参加しました。
「多様性」について、参加者同士の対話を通して考える時間。
誰かが、解説するでも講義するでもなく、そこにあるのは「問い」だけ。それを元に、参加者がアウトプットとインプットを繰り返す時間でした。
もやもやするけど、心地よい時間でもありました。
さて、「多様性」。
やっぱり、これは「包摂性」とセットで考えることだな…とあらためて思います。「多様性」は「包摂性」がないと成り立たず、「包摂性」もまた「多様性」がないと成り立たず、の関係だな…と。
その両方のバランスを常にとることを前提にした概念。それが今のところの私の感覚。
自転車みたいなもので、右のペダルが「多様性の担保」、左のペダルが「包摂性の担保」、どちらもちょうどよく回転することで自転車は倒れることなく、前に進む、そんな感じかあ。どちらかだけを声高に言ってもだめ。前に進みません。
このときは、ペダルをこぐという行為は、「対話」。バランスをとるため、言い換えれば折り合いをつけるためにする行為。それは言語だけに限らないかもしれません。
そして、「多様性」と「包摂性」のバランスをとろうとする行為、つまりペダルをこぐ(対話)のは、「共に前に進もう」というお互い(集団)の意思の共有があってこそ。
共に進むことを「あきらめない」ってことかもしれません。共に生きる、の確認でもあるでしょう。
『学び合い』で言えば、これも「一人も見捨てない」になるわけで。
その自転車も、どちらかというと、集団でこぐ自転車って感じかなあ。誰かの心が冷えて、バランス良くこげなくなったら、その分「心の体力」が温まっている誰かが、ちょっといつもよりがんばる(冷えたメンバーを応援する、手伝う、など)ことでバランスをとる。そうじゃないと、自転車が倒れて止まってしまうから。「お互い様」ってこと。
ふーん。
「心の体力」を温める。そこに戻ってくるなー。
それは、やはり「日常のコミュニケーションを豊かにする」ってことだ。
そういう関係性を育める、そんな関係性を紡ぐトライアンドエラーを、教室や学校、職員室で何度も何度も繰り返すサイクルを回す…。
あ、やっぱり、「サイクル」じゃん…。
脳内のぐるぐるを、ただ、文字化した、自分メモ。