まあ、今「できる」とか「できない」とかって、どうでもいいんだよね、って思っています。
そんなスタンスで教室に私はいるし、子どもたちにもいつもそう言っています。
「まあ、一生懸命やっていれば楽しいし、楽しければ一生懸命やるじゃない?そんな感じだよ~」
「やらされたら楽しくないし、身につかないよ。やりたいことをやればいい。やりたくなくても自分で『これはやったほうがいいな』って思うのなら自分がやりやすい方法でやればいいんじゃない?」
「まあ、やりたいことを夢中でやっているうちに、やりたくないって思っていることも『案外、面白いかも!』って感じられる時がくるからさ~」
そんな調子です。
強制的な宿題も出していません。
「学校でばりばりやればいいんじゃない?家では家でしかできないことをすればいい。」
「家で続きをやりたいと思えばやってきていいよ。」
「ドリルなんかは先に進んでおけるんだったらやってしまってもいい。予習になるよね~」
そもそも、どの子にも「すきなこと」「興味のあること」はあって、それに向かって一生懸命になれることを味わえれば、その他のことにだって欲は出てくるものだと思っています。
だれだって、楽しいことに一生懸命になれるし、夢中になれば自然と学ぼうとするし、変化している自分に気が付けるし、友だちや周りの大人から
「すごいな!」「おもしろね~」
なんて言ってもらえるし。
そういえば先日は、クラスのある子が、林や海岸で拾ってきた木っ端、流木、石を塗ったり切ったりしながら面白いものをつくって友だちや他の先生にたくさん声を掛けてもらっていました。
それだって、彼がそういうものやことが好きだって分かっているから、
「持って帰っていいですか?」
「当たり前じゃん(^^)」
て返答になるし、
「ああ、〇君、もうここの課題が終わっているから残った時間は何したい?」
って聞くから
「作っていいですか?」
「当たり前じゃん(^^)」
ってなります笑。
それが人を喜ばせたり、誰かの役に立つことが分かれば、それがその子の強みを活かした小さな仕事になっていくんじゃないのかな~って思っています。
そうなると、できないことや苦手なことだって、
(これはなんとかしたいなあ…)
って思いますもん。必ずなります。
ちっちゃなキャリア教育。
「できる」「できない」なんて他者から言われることじゃなくて、自分で
「お、できてきたぞ~」「うーん、まだまだだなあ…」
って思うのが、本当の筋。
だから本当はいつでも「できない」の連続の方が楽しいんだな~って思います。
これもまたつい先日、ある会話の中で他校のある先生が
「底辺校がなんちゃらかんちゃら…」
みたいなことを言うので(もちろんその方は悪気があっての使い方ではないんだけど)
ちょっとそこにひっかかってしまった自分に気が付くことがありました。
(ああ、こういうところなんだよなあ…)
って。
だれもが、自分の強みをまっとうに受け入れられて、受け入れてもらえて自分を元気に、他者を元気に、そしてお互いに
「あんた、すげーなー(^^)」
「それ、おもしろいねえ、ちょっと教えてよ。」
「手を貸してくれない?」
そんなやりとりが、お互いにできるといい。
まったく、難しいことじゃないな、そもそも人間って「共感する生き物」なんだもの。
あれ?じゃあなんで「底辺校」なんて言葉になってしまうのかな。
「できるとか、できないとか」