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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

■デザイン、かあ…というつぶやき

■デザイン、かあ…というつぶやき

「あいつらとは違う」

 本を読んでいて出てきた言葉。

 

この感覚ってどこから来るんだろうな?
と思った。

「あいつらとは違う」ってことは、「あいつら」が特別か、自分(たち)が特別か、のどっちかなんだろうな。

 特別かどうかは、何らかの線引きや枠があるから、「特別」が生まれるってことだなあ。
それも、その線引きや枠は、けっこう太い線引きってことになるんじゃないかな。線、というか塀って感じかな。それも高い塀、みたいな?

 そこは越えられない、越えてはいけないみたいな。

なんでそんなことになるのかな。はじめっから「塀」だった訳ではないんだろうけど。きっとはじめは、薄い線、だったんじゃないのかな…。ちょっとの「違い」みたいなもの。

「なんか、違うね…」
程度なんじゃないのかな。

 線が、ちょっとした塀になって、だんだん積み上がってきて、高い塀になってしまった?もうそこを越えられない。

 線を引くってことは、所属をはっきりさせること、に近いかな、と感じる。何のために所属をはっきりさせないといけないかというと、所属がはっきりしていないから…。「所属」がないと自分の「所属」がないから…?

 居場所がないから居場所を限定して少ないともそこだけは確保する、そんな感じなのかな…。

 居場所が欲しいのに、居場所を狭める、その中に閉じこもる、その中でのつながりをより強めようとする…?。
 ヤドカリ、みたいなイメージか?いや、それよりも、あのウクライナ民話の「てぶくろ」みたいな感じか?

https://www.ehonnavi.net/ehon/192/%E3%81%A6%E3%81%B6%E3%81%8F%E3%82%8D/

 このお話、最後はてぶくろがはじけちゃうんだよね…。


 やっぱり、「不安」が根底にあるんだろうなあ…。ヤドカリなら自分を守る殻がないこと、「てぶくろ」であれば寒さ?
 
 では、その不安ってどこからやってくるのかなあ。

 不安の正体は…「分からない」こと、見えないこと、じゃないかな。正体が分からない。
だから、少なくとも範囲を限定にして「この中では『分かって』いることにしよう、したい」ってことかな、自分が思いつくのはそんな感じ。

 こんなに「情報化」の時代なのにね。情報がたくさんあって何でも「分かる」ようなんだけどね。

 情報がありすぎて、入りすぎて、余計「分からない」そんな感じなんじゃないのかなあ。
 

 分かりたいけど、分からない。分からないけど、分かりたい。行ったり来たりなんだなあ。

 そういえば、ゴリラ研究者の山極寿一さんの著書の中のこんな言葉を思い出した。

「人間の欲求には『人と同じになりたい』っていう欲求と、『人と違っていたい』っていう、両方があるんですよね。だから、人間の基本的な暮らしの条件に衣食住があって、その衣食住の中でどこまでその二つの相反する欲求を満たしていくかということ。それがまさに生活のデザインだと思うんですよね。」


 おお、そうかデザインかあ。


http://www.asahi.com/and_edu/articles/0014/?cid=nat_pc_3


「世の中の物事は全部つながっている」
「つまりデザインとは、人とモノ、人と人との関係を『より良くつなげる』ための観察・思索・知恵・行動のプロセスなんです。」

 多様性に合わせて、デザインする、デザインし続けるなんだろうなあ。画一化均質化とは一線を画すものなんだな、デザインは「デザインする」という動詞なんだな。

 そもそも、自然は持続するために自らをデザインしてきたのではなかろうか。そもそも、自然とはそういうことなんだなあ。森、海、川、里、人間の暮らしもその一部であったんだもの。

 不必要なものは自然界では一つもなかったはず。多様な生き物その他が全ていかされての調和、デザイン、バランスかな。

 「こぼれ落ちていくものほど価値がある。」
山極寿一さんの言葉。

 「こぼれ落ちる」のは、画一化均質化にそぐわないからだもの。より「自然」だからなんだな。