■大人、がんばろう。
中高校生が数人集まってテーマについておしゃべりする「部活」がある、とのこと。
「今度のテーマは『教育』だから、どうですか?」
と誘っていただきました。
それは先週の「いしのまき子どもの権利フォーラム」の時のこと。
その「部活」の部長さんから。
勤務校以外の中高生の話を聞く機会はないし、どんなことを思ったり考えたりしているのか、そんな生の声が聴けることが楽しみではあったけれど、そこに私が入ることで言いたいことが制限されるんじゃないか?とも思い、寸前になって参加を迷っていました。
しかし、
(これも何かのきっかけだからな)
と思い直し、勇気をだして参加。(これ、ほんと)
結果…ああ、参加してよかったなあ、と。
(ああ、そうなんだ)
(そんなことあるのか?)
(そんなふうに感じている子もやっぱりいるんだ…)
(学校はどういう場であればいいんだろう)
(教師や大人の役割って…)
(子どもたちだって、あたり前にこんなに思ったり考えたりしているんだ。)
(ああ、こりゃあ、子どもたちに『がんばれ』とか求める前に大人が頑張らなきゃいけないじゃないか…)
(大人がしていない、できていない、やろうとしていないことを、子どもたちに一方的に求めているんじゃないか…)
そんな、いろんな思いが交錯する、そんな120分。自分の現場だけでは分からないこと、自分が見えていないこと、いや自分が見ようとしていなかったこと、そんなことに気付かされる時間。そして、過去の自分をも振り返り、恥ずかしくなる時間でもあった。
話題は「校則」からスタートし、「いじめ」「居場所」「学校とは」みたいに進んで行った。
〇先生とは「上下関係」だから…
〇「校則だから」で終わり。すごくチェックされる。
〇先生は校則、守ってない。
〇校則って誰がつくるのかな?
〇出る杭は打たれる…から
〇なぜ「だめ」なのか分からない。聞いても…。
◯アンケートで「いじめをみたことがある」と書くと、呼ばれていろいろ聞かれるし、かえって困る。友達からもあとから聞かれるし。
◯書いたらからといって「いじめ」が解決するわけでもないし。
◯いじめをしている人に知られたら、今度は自分が、となる。
◯言っても解決しない、なんも変わんない、だからアンケートには「いいえ」と書く。
◯先生と一対一だと話せない。ぐいぐいくるといや。
子どもたちの生の声。
ここだから言える、今だから言えること。
この声をどう受け止めるのか、そこを問われているんだ、と感じる。
「私は、『学校に殺された』と感じている。何も言えなかったし、したいこと、思っていること、なんもできない。子どもの声が出しやすい空間になったらいいのに。」
との言葉は重く受け止めたい。
ショッキングな言葉だ、と流す訳にはいかないと思います。そう感じていた子は確かにいたし、他にきっといるはず。少なくともそういう前提から始めないといけないと思います。
「先生が、大人が共感して、声を受け止めてくれないと、私たちは動けない。」
そうだよね。
学校や教師、大人に向けての声は厳しいものもあったけれど、それは全部
(確かにそうだよね)
と感じることばかり。
最後に、ある子が話してくれたこと。
「でもさ、同世代が一緒に過ごす、なんていうのも人生で貴重な時間だよね。それが学校。そこでみんなで一緒に学んだり活動したりできることで貴重な思い出や経験が積めればいいな、思う。それが学校のいいところ。」
私は、正直、救われた気分に。思わず
「ありがとー!」
と言いました。
「学校はいいところ、でもあるんだ。みんなにとって、いいところになれるし、ならないといけないよね。」
そう言ったかも知れないし、心で思ったのかもしれないし、そこはよく覚えていません。
「子どもたちは、学校で『理想の社会』を経験して、社会に出て行く。そして、『理想の社会(学校・教室)」は決してパラダイスを『用意』することではない。『理想』をみんなで思い描き、子どもと大人(教師)が一緒に創っていくプロセスにある。それが『よりよい(持続可能な)社会(地域)の創り手』を育てていくことにつながる。」
これは私が今学んでいるイエナプラン教育のコンセプトを元に、様々な方との対話を通して辿り着いた、学校と社会のつながりイメージ。
子どもも大人も、一緒に楽しむ。一緒に心地よい空間、場をつくる。良好なコミュニケーション・対話をベースに、それぞれが「創り手になる」。
石巻における「子どもの権利条約」の取組は、それこそ、大人子どもプロジェクトなんだよな、と感じます。
一人じゃできないこと。だからみんなで。
大人、がんばろう。