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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

できるとかできないとか

 出張なんかに行くと、他校の先生たち同士の会話が耳に入ることがあります。そんな中に

「いやあ、うちのクラス、勉強が大変でサアー」

「さっぱり〇〇なんだよねー」

「あー、うちも、うちも!さっぱ▲▲なんだよなー」

とか。

 

 はっきり言って、ちょっといらいらしながら聞いています。

 

私は

「私はちゃんと教えているのに、さっぱり…」

そして、それは暗に

(相手が悪いから(努力しないから)そうなんだよね、お互いたいへんだよなーあっはっは)

見たいに聞こえてしまってしょうが無い。

 

 仮に、その子が困っているなら「今、そこからどうするか」がその子も含めた自分たちの課題であって、困っている相手に一方的に責任を負わせるかのような物言いをしても始まらないんだよね、と感じてしまいます。

 

 そして、もっとひねくれた見方をしてしまえば、そのできるできない、分かる分からない、だって、

「あなたの想定している」

「あなたの思い描いている」「あなたのものさし」

でのそれでしかないんじゃないの?なんて思います。

 

 その子の中にある光る部分や、面白いところ、夢中になっている・なれるところはどこかな?それが今とこの先にどう活かせるともっとその子が幸せになるかな?そんな視点で見たいな、と私は思っています。

 

 なんか、とっても偉そうであれだけど。うまくいかないことだらけだけど。

 自分もできないこと、苦手なことだらけの人間。

 

 だから、自分がどこかの誰かに、影で

「さっぱ、あいつ分かんなくてさー」

なんて言われていたら、ちょっと悲しいからね。だったら正面から言って欲しいし。

 

 できるもできないも、分かるも分からないも、全部表裏一体と思っています。「できる」人が「できない」人に教えるんじゃないよね、と実は思っています。

 

 ここ分かりづらいとは承知の上で、まとまらないまま書いてみました。

 

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