■「リアル」をつくる場
そもそも「リアルとは何か」
結局は、その人の感覚、そこからの思考の範囲内ってことになるのかもしれない。
だったら、その「リアル」を少しでも広げて行こうとする、そんなことが必要になってくるんじゃないのかな?と思ったりする。
昨日は、気仙沼魚市場にカツオの水揚げを見に出かけた。
2日連続の気仙沼入り。
なぜか、というと、その前日に気仙沼に行ったときに、気仙沼の「あつさ」を感じたから。その「あつさ」は何だろう、それが分かるような、分からないような、そんなわくわく感を感じたから。
気仙沼といえば、その代表的なのは「水産」「漁港」「魚市場」「カツオ」…。
では、そこをもう少し感じてみたい、そう思ったから。
感じるにはやっぱりその場に行って見ないとなーって。
行って正解。
朝の太陽にきらきらする海、ウミネコの声、ベルトコンベアーやフォークリフトの音、時々聞こえる市場の方の声、重油や魚のにおい、そういうのが全部一体となってその場をつくっている。
「気仙沼というとカツオ」を五感を通して感じる、そんな短い時間。
今の「気仙沼」の姿の一つ。私の中の小さなリアル。
きっと誰かと一緒に見ていたら、
「そうそう、気仙沼、って感じだよねー」
ってリアルがそこに生まれるんだろうなあ。
そういえば震災だってそう。
直接、津波を見ずに済んだ私の震災のリアルは、瓦礫と化した町並みと、そのにおい。キーキー、と金属がこすれて立てる音や、そこここの家からだらんと垂れ下がったカーテンが風にはためいてハタハタハタ…と立てる音。「どういうことだ…」と立っている自分の姿。
震災のリアルだって、一人一人によって全然違う。それは映像や言葉で伝えられるものもあるけれど、ほんの一部でしかないし、そこはあくまでスタートでしかないんだよなあ、と思う。
「真実は、それを一緒に共有する人がいないと、真実にならない。」
確か、そんな言葉を見つけた。そうだろうなあ、と思う。
まずは、自分の中にリアルを求める気持ちがないと、それを他者と共有することもできないだろうな。
リアルをつくる場。一人でも、だれかと一緒でも。
足を運んでみる、少しでも感じてみる、そんなことをやってみたいなあ。
今度は、漁師さんやそこで働いているいろんな人と話ができたらいいな、と思っている。