硯上山登山の出来事から「催し」について考えた昨日。
それを読んでくださったある方からメッセージをいただいて、しばらくやりとり。私が昨日あれこれ考えていた「感情の共有ってさ…」「『催し』ってさ…」という内容が、この朝その方の問題意識にとって「タイムリーだった」とのこと。
それ、素直に嬉しかったです。
その方は、福祉の現場でお仕事をされている方です。
「今のコロナ禍も含めて地域の諸課題にみんなで一緒に向き合いたい、だから一緒にやりませんか?やりましょう(^^)」そんなメッセージを、お仲間に向けて次のように呼びかけたのだそうです。
(前略)
そもそも、なぜ団体設立したのかと思われた方が多くいらしたと思います。
最初のきっかけは、私自身が感じたこの先の不安からでした。
なんとか、〇〇での暮らしを維持したい。それが動機であり目的でした。
東日本大震災の夜、テレビで見た焚き火に集まる人々の姿。
誰もが不安の中、「ここに来て暖まろうよ」と声をかけあう姿。
これが任意団体の姿そのものとイメージしています。
団体そのものが焚き火になる。
そうすれば、その回りの人々(利用者家族、医療、行政等)を暖めることができます。
不安を共有し、互いに暖めあいながら、解決策を話しあい前に進んでいく。
(後略)
たき火かあ…。偶然にもその朝、別の方のFacebook投稿で「たき火の動画集」があり、
(なんかいいな~)
って感じて、それを自分用にとっておいたんですよね。
もちろん、その時はこの後のこの展開は全く思ってもいなくて。
やはり神っている…笑。
「焚き火」
燃える炎を見て暖まる、温まる。そんな自然な場。「あたたまること」「そこにいること」が目的であって、それ以上でも以下でもない場。「焚き火」という行為、場という目印があって、そこに自然に集まる。集まるだけで、それで十分な場。集まった人が何かしゃべり出すかもしれない。もちろんしゃべらないで、そこにいるだけでもOK。自然な「感情の共有」がそこで「生まれる」。きっと生まれる。
しきたり、とかルール、とかもない。あるとすれば、「安全を確保する」くらいであろうか。
何らかの意図をもって誰かが、「焚き火」を始め、自然とメンバーの「感情の共有」が生まれる。
一定時間「あたたまったら」、その焚き火は一旦終わる。
必要に応じて、同じ人でも今度は違う人でもいいから、また誰かがどこかで「焚き火」を始め、また人が集まる。そして「あたたまる」
そんな感じ?
「いるだけであたたまる」
そこから。
「催し」の1つのメタファーになるかもしれないなあ…そんなふうに考えた。
大きなキャンプファイヤーのような「焚き火」もたまにはいいけど、毎日はできない。「小さな焚き火」があちらこちらにあるといいね。
「タイムリーだった」って伝えてくれたこと、焚き火の映像を送ってくれたこと、そして別便で、「『ただそこにいる』が許される空間は貴重。」と言葉を送ってくれた方。
そんないろんなことがつながりつながり、ここまで辿り着いた、それに感謝です。
ありがとうございます!