次の場所へ行こう

本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

■「居場所」について考える

■「居場所」について考える

 

 宮城県は全国的と比べても不登校率が高いとの報道。

今、県内でもその課題を何とかしたい、何とかしたいと考えて動いている方々も多い。

 この問題は、不登校率という「数字」が下がればいいってものでもないと感じる。

 幸い、私の今までの勤務校ではながく不登校となってしまっているお子さんは居なかったので実のところ、
不登校率が高い」
というのはあまり実感がない。

 でも、そうかもしれないなあ、という漠然とした感覚はなぜかあったりする。

 先日、「いしのまき子どもの権利フォーラム」で、実際に不登校だった生徒さんの話を直に聴き話をすることができたからかな。


 「子どもの権利条約」にかかわる方々から学ぶ機会もあり、その中でよく出てくる言葉の1つに「居場所」というものがある。
 この「居場所」。文脈の中では、「子どもたちに居場所がない」「子どもたちにもっと居場所を」という流れで使われることが多い。
 なんとなく、なんだけど、言えば言うほど、その
「居場所がない」
のがノーマルで、
「居場所がある」のが、特別に設えた上で存在する、みたいな雰囲気になっていく気がして、どこかすっきりしない思いももっていたのも事実。居場所があるなんて行って見れば「あたり前」だから。


 ところで「居場所」とは何か?
 
 昨日も、仲間とそのことについていろいろと聴き合い、非常に気付きの多い時間になった。いろんな話をしたんだけど、その過程の中で
(ああ、こういうイメージかな…)
と腹落ちした感覚は


〇気軽にいていい場所
〇いるだけでもいい、OKな場所
〇気持ちの表出が自然にできるところ。(「~したい」「~したくない」が自然に言えるところ)
〇そこにいること自体が承認されている。(評価されない、でも居ることが感謝される)
〇居ることで、誰かの役に立っていると実感できるところ。
〇動画イメージは「焚き火」で暖をとる人々


 こんな感じ。特別なことでもなさそう笑。

 じゃあ、なんで「居場所がない」なんてことになってしまうのかな…?
 どうすればいいのかな?

 いや、むしろ「どうすることをやめればいいのかな?」のほうがいいのかも、と思ったり。

 
 この「居場所」のことが話題にでると思い出す2つのエピソードがある。実際にその場にいたわけではなくて、聞いた話なんだけど。


 「震災の時には学校も避難所になった。その時には、やんちゃな中学生も『学校』の中で実にいきいきとみんなのために働いていたんだよ。」

 「家族を亡くしして、自暴自棄になっていたんだ。でも避難所で火に当たりながらそこの仲間が一緒にいてくれたんだ。そんな時間を多く過ごしていくうちに自分ができることを考え始めたんだ。」

 正確ではないかも知れないけれど、そのような内容だったと私は認識している。私も「居場所」イメージってきっとここに由来しているんだと思う。

 
 そこには何があったのか、また何がなかったのか。


 そんなことをしばらく考えてみたいな、と思った。

 
 昨晩、雪のふる石巻で。それこそ、山小屋風の場所?でみんながダウンコートにくるまり
「さむー」
とか言いながら、ストーブの脇に(距離をとって笑)座って話していたんだなー。

 


 冷えていれば温めるしかない、そういうことなんだと思った。

 

f:id:motoryou:20190729201107j:plain