「ちゃんと」というのは、本当にちゃんと、なのかな?なんて思うことがあります。
それって、時と場、文化によってその「ちゃんと」の中身は異なるし、細かく言えば人によってその物差しはことなるのは当たり前。
だから、当事者同士がお互いに折り合いをつける、付けながらその「ちゃんと」(この言葉自体好きじゃないけど)を決めて行ければいいな、と私は思う。「ちゃんと」はある意味、評価なんだなー。
学校で言えば、大事にしたいことは子どもも大人も「楽しく学べている」「前に進んでいる」「明日に希望がもてている」そしてその前提としての健康、心と体の安心安全。…そこに「共に」がくっついてくるみたいなイメージです。学校教育目標って多くはそこを基軸にしていると思います。
そこを物差しにしながら、「今ここ」を確かめ合って「これから」に向けて小さくても進んで行くことができる。それが「ちゃんと」といえば「ちゃんと」。
目に見えにくいから、見ようとしないと見えないんだよね。それはなかなか大変。
だからって、目に見える分かりやすいことだけを「ちゃんと」にしちゃいけないと思うんですよね。
「ちゃんと生きてる」ってことであり、それはきっと「ちゃんと学べている」ってことなんだと思う。だから温かいものにしかならないはず。
あらゆる「評価」だって、評価するものされるものは「共に」の仲間なんだから、一緒に
「ねえ?どうかな?」
ってお互いで考えることでもあるんじゃないかな。
だから、評価なんて、そもそも誰かに説明しなきゃ伝わらないものだったらいけないものじゃないんだと思うなー。だって関わるメンバーで一緒に考えていくものだと私は思っているから。
「丁寧な説明」が必要になるなら、それまでの経緯になんらかの課題があるってことだと思う。