「教育の最大の秘訣は教育をしないことに隠れている」(エレン・ケイ『児童の世紀』より)
おお!と思います。そして
(この一文からではこの意味の分かり方はひとそれぞれ違いがでそうだな…)
とも思います。
「隠れている」という言葉が大事だな、と私は感じています。
何が隠れているのか、ってことですね。そしてこの場合の「教育」とは何か、どんなことを示しているのかってことも。
決して「無責任な自由放任でいい」ってことでもないわけで。
子どもの存在をどう捉えるかであり、それって人間をどう捉えるかでもあると感じます。
本当に子ども(人間)を大切にする、したいのであれば、その対象(子ども)に目を向けてそれから方法・システムへ、という流れになるでしょう。その反対ではないと思います。もちろん、「ああでもない、こうでもない…」と悩み多きではありますが、願いに向かって悩むことは楽しいこと。
子どもや子どもを取り巻く環境が異なれば、自ずと方法やシステムは柔軟に変えて行くことになるでしょう。
そもそも、一人ひとりが違った存在で唯一無二。だからこそ共同体(例えば家庭、教室、学校、地域社会…)の中で、「教育を受けさせる」ではなくて、「共に育つ」環境が必要だよね、と思います。
学校であっても、子どもも教師も「共に育つ」を。子どもから学ぶ。それが
「お互いを必要とし、お互いの言葉に耳を傾けて、直接お互いに独自の関わりを持つ」ってことなんだと考えています。そういう状況、状態を緩やかに時に刺激的につくる、それが教育の営み、みたいな感じなんじゃないかなというイメージ。それを具体的な日常の中でどう創っていくかな…に悩むわけですね。
「教育する」より難しいけど、圧倒的に楽しいと思います。
8月実施のイエナプラン教育全国大会でも、こんなことを集ったメンバーで話し合えたらいいな、と思っています。