■がんばっている?がんばっていない?そう見える?見えない?
けっこう、学校の先生って(わたしも含めて、です)、子どもたちの「がんばっている」姿や様子が見たい、と思ってしまいます。
子どもたちがチャレンジして一歩前に行こうとする姿は、本当にすてきです。だからそれを「見たい」と、つい、思ってしまいます。だから、時にそれを子どもたちに過度に求めてしまったり。
バランスを崩すと、だんだん、それが「子どもの成長にとって」というよりも、「自分のため(自分がその姿をみたいから)」というものにすり替わってしまう、そんな危険だってあるな、と私は自覚しています。
もちろん、どこまでが「子どもの成長のため」でどこからが「自分のため」なのか、というはっきりした線引きはできません。だからこそ、自分は今どうなんだ?ってことを自覚したいな、と思います。
きっと、まだまだ学校は「がんばる」に価値をおく文化なんじゃないかな、と思います。時に「がんばらせる文化」ともいえるかな…と感じる時もあります。それが、限られたものさしだけで「がんばり」が査定されてしまうとやだな、が実は私の中にあります。
その子、その子によって、いろんなタイミングややり方で、きっと「がんばり」は発動するし発動しているじゃない、って感じるので。じっくりその子その子と話し聴き続けていると、その一端がちゃん分かってきます。あくまで一端、であることも自覚。
自分がみたい「がんばる姿」に子どもを当てはめてはいけないな、って強く思うのでありました。そして、まずは
「自分が頑張れよ」
と。
そういうと、いかにそれが難しいか分かります…、ふう。
でもね、けっこうこれでもけっこう「ガンバッテルンダヨ」笑。