次の場所へ行こう

本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

■実は、あんまり気にならないんだよな…、私は

■実は、あんまり気にならないんだよな…、私は

 

 実は、私はあんまり気にならないんだよな。

 何がか?っていうと、

「話の聞き方」とか「きびきび動く」とか、そういうの…。

 

 もちろん、多くの教室や学校で、そういうことにも価値をおいていることは分かって居るんです。そして、それに価値がないとか意味がないとかいているんじゃないのです。

 

 私が今、あまり興味がないのは、きっと

「話を聞かせる」とか「きびきび動かせる」ってことなんだと思います。

 

 例えば、「話をより聴いてもらおう」とするなら、

「目をこっちに向けなさい」「姿勢を良くしなさい」よりも

「聞きたくなる内容」だったり話し方のリズムやてんぽだったり、環境だったり、どっちかというと話し手の問題だったりするよな…って思うから。

 

 もっというと、目を見て話を聞いていなくても聞いてる時には聞いているし、目を見て姿勢もよくていかにも聞いてるようでいて実は聞いていない、ってこともよくあることだな、っていうのも分かるから。

 

 だから、

「ちゃんと聞きなさい」「姿勢を良くしなさい」「目をこっちに向けて!」なんてことは言っても言わなくてもあんまり変わらず、むしろ場を冷やすだけ悪影響だな、と私は感じているからに他ならない。そう、私は、なんだ。

 

 そもそも、話を「聞かせる」ことなんかできないよなーって思っている節もあるんだ。聞きたきゃ聞くし聞きたくなければ聞かない(というか聞けない)。それでもしつこく「聞かせよう」とすると、聞いているふり、になったりする。

 

 かくいう大人だって、(私だって)、「聞かされている」と感じるときは、まあ、ほぼ聞いていない。もちろん話者に失礼がないようにすることはするんだけど。

 

 きびきび動く、っていうのもそれに似ていて、動かされる方の意思は、それを求める人の勘定には入っていないのではないかと思ったりする。本当にきびきび動くことが必要な時には、人間、そうするものだ。

 

 だから、本当に必要な時に,例えば「話を聞く」にしても「きびきび動く」にしても、それができればよくて、だから、普段は関係性を丁寧に紡いでいくことがやっぱり大切なんじゃないのかな?と私は思っている、そういうことなんだと思う。

 

 そいういう考えに至らなかった、もっと以前の私は、

「話を聞きなさい!」とか「姿勢を正して!」「速く!」なんてことも度々、言っていたと思う。特に、運動会とか学芸会とか、そんな「楽しい」行事の練習の時なんかに特に多く。(ああ、なんということよ…)

 

 もちろん必要があるときは

「はーい、ちょっと聞いてくれるかな?」

「もうちょっと急いでくださーい」

とかって言うときも当然、ある。

 

 うん、あるな。

 

 そうか、私は使役の言葉に、反応するんだな。「させる」とか、「強いる」ことを感じる言葉に。そして、それは自分がそうされたら嫌だから、っていうのもある。

 

 最後まで、人間の主体性を信じたいと思うし、それは関係性と環境によってその表れ方は実に多様なんだ、と分かってきたからなんだと思う。

 

 単純化、一律化しようとする、そういう雰囲気に、

「ちょっとまってよ。」

と言いたくなる、そういう性格なんだな。

 

 

 結局

「それは、なんのため?」

って話になるな。

 

 

 人と人の関係性の中でのこと、であって、「べき」じゃないってことだな。

 

 だから、私は「あんまり気にならない」「気にならなくなった」、そういうことなんだ。私は、ですけどね。