先日は、地元研究サークルの例会。
毎月メンバーで集まって、テーマを元におしゃべりしています。
この日のテーマは、
「私たちの考える職場改善・働き方改革」
忙しい、忙しい、と言われる学校現場(だけにとどまらないんだけど)。
なんで、こんなに「忙しい」ってなってしまうんだろうね?何とかならないのかな?って話です。
私は「忙しい」という言葉を聞くと、やっぱり、ミヒャエル・エンデの「モモ」を思います。時間泥棒「灰色の男たち」とモモの物語。そして、床屋のフージー氏の部分。
フージー氏は「ちゃんとしたくらし」をするため、「時間のゆとりがほしい」と灰色の男たちの時間貯蓄銀行と契約します。それで時間のゆとりがうまれて、「ちゃんとしたくらし」になったかというと…。
今、ちょうど、この「モモ」のこの部分を開いて気付くのは次の一文。
「でも、このちゃんとしたくらしというものがどういうものかは、フージー氏にははっきりしていませんでした。」
時間泥棒、時間貯蓄銀行。
今回、集まったメンバーで話しながら考えていたことはまさにこんなことだったな、と思います。
より効率的に、効果的に、とはじめは「よかれ」と思って始めたことやシステムがいつの間にか、自分や自分たちを圧迫している、そんなこともあるなあ、と感じています。そこに課題を感じて、なんとかしようよ、とみんなで話し合い、その具体策が「形になっていく」ことが嬉しいよね、ストレスがなくなるよね、とある参加者が話していました。 「話をちゃんと聴いてもらえている」「話したことを受け取ってもらえている」そして「具体的に動き出せる」
という実感。組織の中で、自分がその運営にも参画しているということを感じられる場だからな、と思います。
そういうのがなしに、自分の願いや思いとのつながりを感じられない(分からない)流れ、業務に流されていくこと自体が、ストレスや多忙感につながっていくものですね。
「無駄な仕事だな、と思うことってどんなこと?」
と尋ねてみたら、いつの間にか、「大事だと思う仕事」についても浮き彫りになっていく、そんな話の展開が面白かったです。同じような仕事でも「無駄」と感じてしまったり「大事」「楽しい」と感じられたり。
その違いはなんでしょうね?
面白かったのは
「やらなくてはいけない、って感じている仕事が、無駄だと思っている仕事だな…」
ってところ笑。
「やらなくてはいけない、が無駄って変じゃない?笑」
「やらなくてはいけない、が無駄」ってなんでしょうね。
つまり、やる必要性が感じられない、やりたくない仕事ってことですかね笑。
自分は大事だと思えないけれど、なぜか、やらなくてはいけない仕事、が無駄ってことかな。そこのやっぱりコミュニケーション不全があるんだろうなあ、と思います。
日常のコミュニケーション。
「無駄な」会議は嫌だけど、「業務改善委員会」を立ち上げて、みんなで話し合うのは、「楽しい」んだし。同僚と一緒に授業のことをあれこれフランクに話す時間は、仮に勤務時間後になったとしても楽しい場合も多いものですし。
フージー氏じゃないけれど、「ちゃんとしたくらし」(しごと)って何かを、やっぱり考え続けないといけないよね、って話。それもみんなで。
そして行動してみるってことだ。