「あはは、おれ、いい仕事した?」
「うん、したした!(^^)」
「イメージできたよねえ、やっとつながってきたよ~(^^)」
今は、次年度教育計画作成のための、各領域部会が行われています。
大事な時期です。
「生活総合・キャリア、進路、志教育」部会。
今年の特徴は、異なるセクション担当でも関連の深い分野は一緒に話し合いを行うようにしているところ。
今回は、小中9年間の「生活総合」と大きな流れと意味、そしてそれがキャリア、進路、志教育とどう関連しているのかの話。そこから次年度の具体的な方針、活動の方向性をメンバーが集まって話し合いました。
やはりヒトは、顔と顔を付き合わせて話し、そこでの感情共有があって理解が進むのだなあと感じます。お互いの信頼関係も、そこから積み上がってくるものだと思います。それは意見が同じだからとか、異なるから、とかではなくて。話し合いの中で感情の共有が生まれたかどうか。その時にできなくても、その気持ちがお互いに感じられたかどうか、でもあると感じました。
あくまで、文字はその時の記録。忘れないように、それを見たらその時の感情も思い出せる、そのために文字があるのですね、内輪の記録であれば。
反対に、内輪のことなのに、文字の記録が優先されれば、それをみても本当のところの
「うん、そうだったね」「そうだな」
は生まれにくい、少なくとも全体の共有事項にならない。
文字記録で、縛られ感を感じてしまう時って、事前の感情共有のところ(対話など)が欠けてしまっているところ何だと思いました。
「あはは、おれ、いい仕事した?」
「うん、したした(^^)」
「イメージできたよねえ、やっとつながってきたよ~(^^)」
という会議後の会話は、参加メンバーが十分話し、話したことをホワイトボードに書き出しながら、全員の意見を位置づけながら行った結果。
話したことを、可視化し確かめながら、エピソードも出し合いながら参加者で感情の共有を図ることを意図して行ったこと。
お互いが、「エピソードの共有が情報の共有」が分かっているから。
会議自体も「エピソード」になります。
感情(対話)が先、文字はあと(補完)だなあ。
反対になってはいけないな、と感じた次第。