■「こういう話し合いの場があることがうれしい」
コロナウイルスの影響で、6月からが本格的な学校スタートになった今年度。
だから、「いつも通り」にできないのは、仕方がないです。
学校再開から2週間近くになってきたこの段階で、
「今年度学校行事なども含めて、教育活動をどうしていくか、そのあたりの方向性をみんなで話し合い共有しよう」
という目的で、ホワイトボード・ミーティング®。
この話し合いがきちんと、当たり前のように対話型ミーティングで行われることもかなりいいよね、と思うのだけど、それ以上に、この時期に行うってこと。
学校再開のスタート期は、とにかく私たちは子どもたちの様子をよく見ながらゆっくり丁寧に焦らずやっていこう、という共通認識があったから。だから、教師側の不安を前面に押し出して
「これからどうする?どうする?」
なんてバタバタしないでいこうね、ってことが学校の方針として出されて確認し合えていたこと。
だから、私たちは再開後からここまでは、担任陣は子どもたちと話し、ペースを一緒に作りながら毎日をつくってこられたと思う。子どもファーストが貫かれていたと私は感じている。
それからの、
「では今年度はどうしようか?どうなるといい?」
ってこと。
このプロセスは、目立たないけど、すごく大切なことだなあ、と思っています。
さて、「では今年度はどうしようか?」のミーティング。
一人一人にちゃんと話す時間があって、それをホワイトボードに書いていく、聴き合う時間。それからの「大切にしたいこと」の確認。
「この状況下。子どもも大人も健康であること」
「子どもたちのやりたい、楽しいを大切にしたいね。」
「大人もね笑」
「子どもたちとやりとりして、一緒に行事についても考えていきたいね。教師サイドで勝手に決めないで。相談しながら。特別活動の主旨としても。」
「小さな行事、催しでも十分楽しくできるよね。」
「むしろ、大がかりな行事がいいって思っているのは、むしろ大人かもしれないよ。」
「そうだね。例えばね…」
「1年生は、もう、毎日が楽しいみたいで…笑」
「私たちも子どもたちも無理なくやれて、楽しいことを考えたいね。」
「うんうん」
そんな感じで、方向性を確認。
この後は、PTAの役員さんたちとミーティングをして、すりあわせを図っていく、そんな流れ。
この流れの中に、「子どもたちとの相談する」がちゃんとあるっていいなあ、と思う。当たり前なんですけど。
これだって学校の中の「国民主権」。
そういえば、先日の6年生の社会の時間は、まさに、その「国民主権」の学習。その時の子どもたち同士のトークの中で
「考えを伝える、と、考えを受け取る、ってセットだよね。」
という言葉が印象的だったなあ。
そうそう、伝えるだけじゃなくて受け取る。伝えあう、共に考える、行動する。そんなことだよね。
ミーティングが終わると、毎回「一人一言ずつコーナー(2クラップス)」があるんだけど、その中である先生が
「こういう話合いの場があること自体がうれしいことです。」
って言っていました。
多分ね、こういうこと自体が小さな小さな「行事」であり「催し」なんだと思うんですよね。
だから「行事」自体(の本番)はもしかしたら、無くたっていいのかも、とさえ思う。うまく伝えられないけど。小さな感情の共有の積み重ね、それが特別活動、行事の本体だから、カタチとしての「行事」の大きさや、あるなし、なんて本当は「どっちでもいい」のかもね…と思った。
さて、クラスの話。
「いやさあ、コロナがなければ、本当は明日が『修学旅行』の予定だったわけよ。でも明日は天気予報では雨なんだなあ~笑」
って言ったら、子どもたちは
「いぇーい!ラッキー!」
だって笑。
秋への実施に向けて、大人も動いてくれている、って分かっているから、そうやって遊べるんだよね、きっと。
なんか、彼らと共に、このコロナ禍の波に乗り、風を読んで、なんとか前にいこうぜーって1年は、こりゃあ、1年を掛けた「催し」になるかもね、なんて思ったりして。
そのためには、やはり「正しく恐れる」べし。油断せず。