■ああ、ドキュメンテーションかあ
昨日、ある保育園の園長先生と話をしました。
以前、その保育園の先生たちと一緒に、レッジョエミリア教育の研究者の方をお招きし何回か学習会を行ったことがあります。
その中で園長先生が
「保育士さんたち、今でもドキュメンテーションを作ってるんだよ、あのレッジョの時に一緒に学んだやつ。」
って話してくださった。
観察者(保育士や教師など)が
「あ、ここ」
って思ったところを写真にとって、あとから
「そこで何が起こっていたのか」
「なんで自分はそこに価値や意味を見出して写真を撮ったのか」
「そこで、彼(彼女)はどう考えていたのか、私はその場面をどう捉えたのか」
・・・・・・・
その写真を見ながら振り返って話したり、文章に書いて記録に残しておいたりする、そして次の活動に(指導者や場合によっては子どもたちが)活かしていく、それ。私はざっくりとドキュメンテーションをそんなふうに解釈しているんだけど、いいかな?
その話を聴いたときに、
(ああ、そっか)
と思ったのは、私の学級通信のこと。
私は基本的に毎日学級通信を書いて発行している。
クラスの人数は4人だから読者もそんなに多くはない。
A41枚、大きな写真1枚に見出し付ける。それに対する記事10~15行程度。それだけ。
私は校内ではいつでもカメラを持ち歩いていて、
「おもしろいな」
「おや?」
「いいね」
など、なんとなくピンときた場面やもの、ことなんかを写真に撮っている。
放課後には、その中から、その日のトピックになりそうな場面を1つ選んで、学級通信に使う、そんな風にしている。
毎日の普通の日常の中から価値や意味を見つけて、それをもう一度振り返り、他者(子どもたち、保護者、同僚…)と
「どう?」
と共有する、そんな使い方。
これって、私にとってもドキュメンテーションだったんだなあ、とあらためて気が付いたというか、再認識できた瞬間だったなあ。
日常の連続の中に、「催し」だったりトピックがあったりする。
その日1日の中でも、「ここ」っていう「催し」(感情の共有)があったりする、そんなことじゃないかなあ…。