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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。社会教育士。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。https://note.com/bandai_gradation/

■コミュニケーションってやっぱり、そもそも個別のもの

 コミュニケーションってやっぱり、そもそも個別のものなんだと思います。
「あなたへのメッセージ」「あなたとのやりとり」

それは「あなたのことを見ているよ」、だったり、「あなたに向けてこれを伝えたいよ」、だったり。ドライじゃなくてウェット。分かりづらいくらいのほうがほうがむしろいい。
(あ、通じたんだ!みたいな)

 1対1の中でやり取りし、その往復回数でお互いの信頼感をゆっくり作っていく、そんなものなんだなあ、という認識です。そのことを忘れてはいけない、そう感じています。
                
 教室や大人数の場面に置いては、どうしても1対多となり、その中でコミュニケーションを図らないといけません。一度に他者と同時に、はできません。聖徳太子ではないのですから。
 だから、そういう時は、その場の空気感をそれぞれが少しでもキャッチしようとしているんだな、と思います。表情や音、仕草…そんな非言語なものから少しでもその場の人と交信しようとする。そして調和を図ろうとしていますよね。(話はそれますが、敢えて乱して、乱すことでコミュニケーションの開通を図る場合もあったり…)

 アイコンタクト、なんてその典型ですよね。そういえば、スポーツにおいて、1対1のコミュニケーションが瞬時に成立して得点できたときなんて、ほんとうに気持ちがいいですよね。「私とあなただけに通じた回路」「一瞬でつながった回路」そんな感じ。非言語コミュニケーション。

 人間の言語コミュニケーションのルーツが「子守歌」にあるのではないか、とゴリラ研究者の山極寿一先生からお話を伺ったことがあります。そして著書を読んだりもして、
(ああ、そうかあ…)
と感じるものがあります。

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001351.html?fbclid=IwAR3bO-Iwue9b2y9az0lgLNLhgRAENxY13SABVPxn-VgIdZPIYFUI3iFKupw

 

 そもそもコミュニケーションって人間的なもので、個別性が強いもの、なんだろうなあと感じます。極端にいうと「内緒話」みたいなものですよね。そこに特別感があって、だから嬉しい。
 個別のメッセージを公にされたりしたら、やっぱりがっかりします。だって、そのメッセージは、「わたしとあなた」の間で成されたものなのだから。

 
 「今は、コロナウイルスに影響でお互いのコミュニケーションがとれない、とりづらい」
という雰囲気がある気がします。
 確かにそういう側面があるなあ、と思います。今まで毎日普通に、直接会えて交わせていたものがかなりの部分制限されているからです。
 一方で、もしかしたら、「個別のメッセージを送りやすいのは今」かもしれません。そういう見方を持っていたほうがいいよな、と最近思っています。コミュニケーションがとりづらい中での、敢えてのメッセージ。スポーツの中での瞬時のアイコンタクト、みたいなやつ。すっごく感覚的で、直感的で、動物的なやつ笑。


 誰にでも、同じように、同じ時にアイコンタクトはしません。できません。ここ、っていう時に送るメッセージ。そもそも個別性の高いもの。その感覚を持っていたいし磨いて行きたい、今だからこそって思います。待っていられないタイミングってあります。赤ちゃんが泣いていても
「今は子守歌の時間じゃないから」
なんてあり得ませんよね?笑。


 今、どんなメッセージをどうやって、誰に届けるか。


 コミュニケーションをどうつくっていくか、って実はすっごく大事なことだよなあ、と考えれば考えるほど思います。毎日の生活もいろんな場(仕事場、会議、学校、教室…)での日常のコミュニケーション。
 今は、これまで通りにはとりづらい毎日だけど、敢えてとろうとする。そこを楽しんじゃう。文明の利器もいいけれど、敢えてのアナログコミュニケーションを主にしたい、私はそう感じています。

 文明の利器もいいけれど、それはやっぱり従にしたい。
そうだ、私はそもそも「生活綴り方」からスタートしたんだった、そこを再認識させてもらう昨今。

 人間も自然の一部だから、自分の手や口、体などを使って、伝わっているのかいないのかたしかめたしかめ、一対一のコミュニケーションを紡いでいく努力をしないとな、今だからこそ、と思っています。

 

 

 

 

 

 ゴリラ研究で有名な山極寿一さんのお話を伺ったりそこから著書を数冊読んであれこれ考える機会がありまして。そこから、自分なりに考えたことをまとめたことがあります。
(以下)

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※みやぎ教育文化センター センター通信№98

■言語以前のコミュニケーション

 京都大学総長、山極寿一さんのお話を拝聴できる機会を得ました。本当に運が良かったです。テーマは「サル化する人間社会~ゴリラから学ぶこと~」
 はじめから最後まで、本当に興味深く、わくわくした時間になりました。同時に、もっともっと知りたくなったし考えたくなりました。頭の中でいろんなことがぐるぐる回っている、そんな状態です。

 サルやゴリラには「社会」があります。
 だから、「言葉以前に社会はできていたはず。」
ということ。つまり、社会ができてから言語が生まれた、と言えそうです。

 そして、人類が言語を使うようになった理由には、人類特有の「家族」という社会単位が大きく関係しているのではないかとのこと。
 家族、共同体。
 ゴリラのコミュニケーションの取り方の特徴は「挨拶」。じっと顔を合わせて見つめ合うとのこと。これはサルではできないことらしい。喧嘩になるから。
 ゴリラがサルと異なり、相手の気持ちを感じたりメッセージを受け取ったりできるのは、そうやって見つめ合ったり、食べ物を分け合って共に食べたり、子育てを集団で協同して行ったりしながらお互いの一体感を確かめ合ってきた、そんな長い時間をかけて身に付けた感覚、共感できる土台みたいなものがあるからなんだろうと思いました。
 身体感覚をベースにしたコミュニケーションを繰り返してきた歴史が、共同体においてお互いの信頼感を高めることにつながってきた、それがゴリラの生活から見て取れるような気がしました。言語がなくても身体感覚でコミュニケーションは十分にできるもの。いや、むしろそもそもコミュニケーションとはそういうものだった、と伝えられているように感じます。

 「言葉によって意味が付与された。コミュニケーションはそれまでは気持ちを伝えるものであった。」
 確か、山極さんはそうおっしゃったと思います。そしてその言葉によるコミュニケーションのルーツは「子守唄」。集団で共同的に子育てをする中で、赤ん坊に安心感を与えるための音声によるメッセージ、コミュニケーション。

 「コミュニケーションは気持ちを伝えるもの、安心感を伝えるもの」。そして共感能力を高めるもの。

 今は情報があふれている時代。世界中の人に多くのことを伝えるには、もちろん言語が必要。今は身近であっても文書で残すとか、きちんと説明するとか、話し合うとか、多くの場合言語を通してコミュニケーションを図ることが圧倒的に多いし、優先されることも多い気がします。
 「情報伝達・共有」「コミュニケーション」と言う場合、まず頭に浮かぶのはそういう言語を通したコミュニケーション。少なくとも私の場合はそうだったなあ、と感じます。いつの間にか「コミュニケーション」を当たり前のように「言語優位」で捉えている自分がいます。
 しかし、言語的なことを「コミュニケーション」と考えてはいても、実は本質的な部分は身体感覚に頼っていることにも気が付くことができます。例えば声色、表情、それ以外の他者の体に表れる微細な変化。そんなところから、他者の心情や真意をはかることが多いものです。

 説明すれば分かる、書けば分かる、対話すれば分かり合える、ではありません。それだけではコミュニケーションは成立しないし、進展もしないんだなあ。

 言語ですら「共感」という点から見れば、バーチャルな世界なのですね。

「安全は技術で作れても、安心はつくれない。安心は人の中にある。」
リアルな、自分の感覚を大事にしたコミュニケーション。
 情報化社会だとか、テクノロジーだとか、そういうのも便利なところがあるけれど、根本的な「人間としての感覚」にもっと目を向けようと感じた機会になりました。

 言語以前のコミュニケーション。ここが今回とっても気になったところです。 

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