「認知症の人本人に学ぶ」という催しに出かけた。
いろいろと考えたいことがあったので。
https://www.facebook.com/events/541703453046523/
まず、「認知症」と診断された方が、あのように自分のことをオープンに語れることに素直にすごいと思いました。
ううん…、すごい、という言い方でいいのかも分かりません。
それは「すごい」と私が感じていること自体が、そもそも「偏見」なのかも、とさえ感じてしまうから。
自分と自分を取り巻く環境のことを考えた時間でした。
人間誰しも「生きたいように生きたい」とい願いがあります。そして、それはただ生きていればいいのとは違います。自分の思いがないがしろにされると不安が募り、それがいろんな形で「問題」となって出てくることがあります。
一方でそういう問題も、それぞれの立場から言えば「善意」からくるものも少なくありません。
「この人のために」
その、「この人のために」がそもそものボタンの掛け違いなのかもしれない。
「この人のために」から「この人と共に」へ。
そういう提案。障害を(困り感を)オープンにする、困ったら聞く、当事者の思いを聞く、「専門家」になると見えなくなる、見なくなるものがある…
この時間に出てきた言葉。キーワードとしてメモ。
共に生きるってどういうことかな、を考える時間でした。
「問題」にするから問題になるのであって、そうしなければそうならないってこと。
問題にしているのは、実は誰なんだろう…そんなことも考えます。
認知症の当事者として登壇した丹野さんが最後に、質問者に伝えた話。
「どんなデイサービスだといいか、はそこの人に聞けばいいんです。本人に聞く、それが一番。『本当はピンクレディーを歌いたいんだけど、施設の人が準備してくれているからさ、』といって昭和歌謡を『合わせて』歌ってくれているご老人がいたんですよね。だから本人に聞けばいいんです。」
共に生きる、ってお互いに聴き合うことでしかないのかもな、と。
聴き合ったからといって完全に「分かる」「理解する」にはならないけれど、曖昧なままでもいいから、お互いに聴き合おうとする環境を一緒につくる、それだけなのかもしれません。