■「お店」
国語の説明文「町の幸福論」からの流れで、子どもたちと「まち」について話す時間がけっこうあります。
「どこに誰が住んでいるかとか、どの人が普段どんなことで困っているのか、とかを知っていないといざという時にも助けにいけないよね。」
「取材した〇●さんも『お互いに知っている』ってことが必要、って言っていたしね。」
「うん、知っていれば、できることや関われることってあるよね。」
「名前も知らないと声もかけられないし。」
「知っている、って大事だねー」
そんな話だったり、
「雄勝はお店が少ないから、買い物ってすごく不便だよね。」
「うちは、休みの日に石巻に出かけたときに1週間分の買い物してるよ。」
「お店がもっとあると、快適に暮らせると思うんだけどな。お年寄りももっと買い物がしやすくなるしね。」
「そうだよね。そういえばお年寄りは買い物、どうしているのかな?」
お互いがお互いのことを知っていること、普段からおしゃべりし合う関係にあること。そんな小さなことが日常の中に溶け込んでいることが、まずもって大切なんだなあ、と感じます。
「そういえばさ、この前、お母さんが◎〇商店(雄勝の商店)に寄ったらさ、たまたま知った人が来ていて、そこで『あらー!久しぶりー』なんておしゃべりが始まったんだよね。」
そうか!お店ってそうやって、人と人とが出会い交流する場でもあったんだなあ、と思った次第。地域の人同士が気軽に集まり、コミュニケーションを図る場、それがお店、商店街だったか…。あたり前のことを思い出した気分。
地元にいろんなお店があり、そこで時々まちの人々が買い物に出かけ、挨拶をし合ったり、立ち話をしたり。そんな日常がかつてはあったんだろうな。
そういえば、小さい子が「お店屋さんごっこ」を好んでするのは(最近の子はするのかな?)、そこに人と人とのコミュニケーションが多様にあるからじゃないのかな。
「人と人との交流」は、イベントを開くことだけではないですね。イベントはイベント(まつり)として生活に彩りとリズムを作ってくれるもの。その下地となる日常のコミュニケーションの場として、けっこう重要だったものの1つに「お店」「商店街」があったのかも知れないなあ、とあらためて感じた次第。
少年たちにとっては駄菓子屋だったり笑。
自然と生まれるコミュニケーションがあって、イベント(催し・まつり)もある、どちらかではなくて、その両方。その繰り返し。
当たり前だけど、
(ああ、そうだなあ、お店の役割、かあ…)
なんて思いました。
学校や教室で言うと、休み時間や学習を通しても普段のコミュニケーションと行事などのイベントのリズミカルな回転。
そんなことを思った日の帰り道、コンビニに寄り、お金を払おうとしたら
「今日から、レジが変わったんですよー」
と言われ、よく見ると、自分でお金をいれるみたいな形式に…。
「え?これって自分でお金をいれるんだ…。自動販売機みたいですねー」
なんていって店員さんと笑ったけど…。
「便利」ではあるのかも知れないけど、なんか笑えない話でもあるなあ…とも思ったのでした。
いずれ店員さんもいなくなるんじゃないかと心配にもなりました。
そして、「お店屋さんごっこ」もなくなる…。わわわ・・・。