ちょっと前のこと。
1年生の教室の窓側には、子どもたちが
「紙の世界」
っていっているコーナーがあって。
あれ、なんていうんだろ、スポンジ?ウレタン?のマットを連結させて敷物みたいにするものがあって。
その上に、子どもたちが箱やら紙やら、折り紙やらテープやら様々な容器などの廃材やらでつくった「まち」ができていまして。
それって、おそらく最初は図工か何かでみんなでつくったやつをそこに集めたのがスタートだったはずですが、それをそのままにしておくんですよね、担任の先生、敢えて。
そうすると子どもたちは、休み時間や放課後も使ってそれで遊ぶわけです。
ごっこ遊び。
いろんな施設や、「○○ちゃんの家」だったり、新しいキャラクターがでてきたり、時にはコロナが流行したり…。そういえば、私の家も一時期あった笑。
図工で新しくつくったものがあると、それがまたその「かみの世界」の住人になって新しいストーリーが始まる、みたいな。
「まちづくり」がずっと続くわけです(^^)。
その変化が実に面白くて、私はほぼ毎日その1年生教室の前を通るときは、
「お~?どうなってる~?」
なんて感じで進捗状況を聞いてみたり。そうすると1年生の彼らは
「いまね、ここがこうなってね…」
「新しい仲間なんだー、○○ちゃん!」
とかって教えてくれたり見せてくれたり。
そんな状況が1年、続くんですよね、子どもたち、ぜんぜん飽きずに。
連結したり、ばらしてみたり、広がったり縮まったり。
まさに、まちの歴史!あり。
なんで、こんなに長いこと、遊べるんだろ?楽しめるんだろ?
それって、きっと担任の先生が、いっつもその変化を面白がって、笑って、拍手して楽しんでいる、そんな姿に1年生のとってもうれしくてどんどん遊ぶ、そんなことなんだと思うんですよね。
一緒に空想を楽しんでくれる、そんな人が側に大人も子どももたくさんいることの価値、なのかな。
なんでこのことを思い出したか、というと先日「モモ」(ミヒャエル・エンデ)の読書会をしたんですが、そこで自分が
「ああ…」
って思ったのが、三章の、子どもたちの暴風雨ごっこのシーン。子どもたちがしばらく空想の世界でごっこ遊びに興じるシーンです。
空想の世界で遊ぶ…遊べる。
一緒に空想の世界を楽しめる。
それってどういうことなのかな…、って考えたりしたから。
とにかく、あの1年生たちは楽しそうだったんですよね。
もちろん、お互いの空想があわなくて「けんか」もしたりするんだけど、それでも続けて居たから、やっぱり楽しかったんだよな、と思うのです。
わたしたちは、子どもたちが遊べる環境を用意して(邪魔しないで)あげられているのかな。