■見えないものが「ある」ことを知る
万石浦の種牡蠣生産の現場を(遠目にだけど)見てみた。
毎日見ている景色だし、そこで「種牡蠣」を生産していることは知ってはいたけれど、見ようと思って見ると、やっぱり違ったように見えてくるんだな。
近頃、ちょっと牡蠣の養殖の作業について興味があってほんの少しだけど調べているからかな?それ似加えて、牡蠣の生産に関わっている方何人かに直接お話を聴いたりふれ合ったりしているからだな。だから、いつもの風景の「背景」が見えてくる。
「ああ、あの時教えてくれた、あれだ…」
「あの現場で、作っていたあれはこう使われるんだな…」
「あそこまでにするには、その前にこんな作業があったんだな」
などなど。
目に見えていることは、氷山の一角のようなもの。その下には目に見えない人の働きだったり条件だったり工夫だったり歴史だったりがあるんだよなあ、そんなことが少しずつ実感できるようになると俄然面白くなってくる。そしてそれを一緒になって面白がってくれる仲間がいるとなおさら。
そういえば、この前、クラスの子を連れてコンビニエンスストアの取材にいったけど、その振り返りの中で
「何度も行ったことがあるコンビニエンスストアなのに、すごくわくわくしたんですよねえ。なんか世界観?が違うような…」
「普段見られないところも見せてもらえたり、〇〇さん(店長さんのお名前)からもいろいろ教えてもらったし。」
なんてことを話していたなあ。
見えないものが見えだしたとき、そこに一緒に関わってくれたり喜んでくれる誰かがいるとき、学ぶこと(分からないこと)がぐっと面白くなってくるんだなあ。
「見えないものが『ある』ことを知る」ってことかな。それを知るには「他者」も必要ってことか…
「共に学ぶ」「共に生きる」そんなことを感じるのがやっぱり「学校」という場の本質なんじゃないかなー。