■ 「護られなかった者たちへ」
「『対話しよう』ではなくて、『対話になる』んだな…」
これは、あるラジオを聞いていて、ふと耳にとまった言葉。
はじめに「対話」という決まったものがあるんじゃなくて、そういう状態になっていく、そんなことかなと思いました。
対話とは何か、もありますが。
「気持ちを伝えるもの、気持ちを受け取るもの、その相互のやりとり」
みたいな意味で今の私は捉えているんですが。
昨日みた映画「護られなかった者たちへ」。
https://smfc-feature.com/mamorare/
「声を上げるんです。そうすると誰かが手を差し伸べてくれる。」
「適切な」運用のために決められた「原理原則」。その原理原則があるからこそ、適切に運用できることも多い。一方で、その原理原則自体が、邪魔することもあります。個々のケースにぴったりと当てはめることはできないから。そこを埋めるのはやっぱり人しかできない、そんな気がしました。
声を上げることと一緒に、声を受け取ること。キャッチすること。
すぐに、自分だけでなんとか出来なくても、誰かと一緒につなぐこと。
声を上げられる環境をなるべく多くで整え合うこと。
それこそ、自分の身の回りの数メートルの範囲でしかできないことだけど、だからこそ「原理原則」だけにとらわれない運用もできるってことでもあるのでは…と思ったのでした。
映画でも、業務が多すぎて余裕がなくなってくると「原理原則」だけで進めるしかない…と感じさせられるシーンも。
想像できることでもあり、このあたりも考えさせられる部分でした。