人への関心、信頼。
学校で子どもたちに育んでほしいものの、大きな柱は
「ひとへの興味関心と信頼」かな…って思っています。
自分が一生懸命だったり誠実だったり、過ちを認められたり、他者を大事にしようとしたりすれば、もしくはそういう条件すらなくて無条件でも、多くの人は、自分の見方になってくれる、という安心感。
そんなことを、「小さな社会」でもある学校で、いろーーんな体験から感じとって、大きな社会に出てほしいな、と思っている。
そんな場を提供するのが学校、教室。
そのために国語も算数も体育も学校行事も、ある。そんなイメージ。
だから、そのすべてに「対話」が必要だ。それは言葉に限ったものではない。他者を理解しようとして受信する、受け入れるアンテナ。その感度。自分を表現するための言葉、表情、仕草…。全部「対話」だと思っている。いろんな角度から時間をかけて。途中で肉付けしたり修正したりしながら。
理解したいと思う気持ち、理解してもらいたい気持ち、その両方のすり合わせを諦めず、時に楽しみながらし続ける。時間をかけて。
うまくいかないことも多いに決まっている。人はそれぞれ違うから。だから、それを楽しむには、やっぱり「余白」「余裕」がいるんだよね。
ただ「いる」だけでいい。
「何かの成果とか結果?それはいつか出てくるかもねーあはは」
くらいな隙間があれば、やがて誰でも自分の居場所、力の出しどころを見付けるよ、と思う。人ってそういうもの。本能的にだれかの役に立ちたいって思う生き物でしょ、って思う。そこを「信じる」っていうのが『学び合い』の考え方であり、イエナプランのコンセプトじゃないの?って私は思っています。
分かりやすい、とか効率的とか、そういうのがスマートって感じでかっこいいいけど、そうなると、
(こうかな?ああかな?)
って逡巡する時間すら、非効率的って片付けられそうで。もちろん「対話」なんてしている時間がない。
分かりにくく非効率的。その楽しみ方とその価値を「大切なもの」って感じ自分の力の発揮しどころを体感して、子どもたちには、世の中、コミュニティに踏み出してほしいな、と思う。
「主体的・対話的で深い学び」って私にとってはそういうことなんだなー。