力を付ける、とか能力を育てる、とか。
もちろん、学びは人との(もの、こととの)関係性の中に多くはあると思うので、他者が与える影響は大きいと思います。
ただ。
教えてできる、ようになったことは、それは本人がいつでもどこでもそれを取り出して使いこなせる「ちから」になっているのか?となると考え込んでしまします。
学び手がそれを強く求めて居る状況下で「助言する」「教える」(学校では指導する、なんてこともいいますが)のは、本人の汎用的な「ちから」に結びつく可能性が高いかも、と思います。
しかし、そうじゃない場合は?
「求められたらできますけど」
くらいだと、自分の「おもしろい」「楽しい」「こうしたい」に向けた事柄に、「できるようになったそれ」が使えるのか?と思ったりします。
自分で使いたい、こうしたい、こうありたい中で獲得したからこそ、自分の道具として獲得できるんじゃないか?と思っています。
だから、子どもたちにも
「どうしたい?」「どうなるといいの?」
って聞きます。
「じゃあ、やってみようかー。困ったら声を誰かに掛けてねー」
としています。
願いに向けて一歩踏み出したり、困った時に取り出せる、そんな道具としての「ちから」。もともとその子の中にあるその「道具」を自分で見つけて、自分で磨いたりだ誰かと一緒に磨いたり。
そして、自分の「ちから」を発揮できる、発揮しやすい環境・条件を自分で整えることができる、そんな練習を、教室・学校でしてほしいと思っています。
それには、まずは自分もそうじゃないといかんよね、とさらに思っています。