■「徒競走は『表現』だったのか…」
先日は、地元教員の研究サークル「あすみの会」6月例会でした。
今回は、私が話題提供。
テーマは、「イエナプラン20の原則2『どの人も自分らしく成長していく権利をもっています。」をどう考え、学校全体の文化にしていくか」。
それを教務主任と特別支援級の担任という2つの視点から見ながら考えたこと、取り組んだことを伝えました。
私が大切にしていることはいくつかあるのですが、その中の一つに「自分のチャレンジを自分で決める(自己選択と自己決定)」「違いをちからに」というのがありまして。
その中で、先月行われた運動会の徒競走で、
○練習、当日もくじ引きで走る組を決める。
○異学年で走る。
○一緒に走る仲間を見ながら、子どもたち自身が自分のスタートラインをどこにするか決める。
という、体育主任が中心となって進めたチャレンジの話を紹介しました。
小規模校で、そもそも異年齢であらゆる活動を行っている本校。一人ひとりがそもそも違う、という前提はもうすでに共有されています。そんな中での「徒競走」の在り方を考えてみたのでした。
例会の中で、こんなフィードバックをもらえたのがとても自分自身の気付きが大きかったのです。
「子どもたちは今までの『平等性』つまり、同じスタートラインにするっていうのを一旦壊して、『新しい平等』を自分たちでつくった、見つけたってことだよね。得点種目なんでしょ徒競走?スタートラインはそれぞれ違っていてもいい。どこに向かうか、だけ一致していればOK。どうしたら自分や自分たちの走りを楽しめるか、をそれぞれの規準にしたんだもんね。」
それを聴きながら、私が思ったのは
(ああ、そうか。これって、競走じゃなくて、『表現』ってことじゃないの?)
ってこと。自分がどう走ることを仲間と一緒に楽しめるか、どんなパフォーマンスをその場で見せることができるか、それを見ている人にも「表現する」ってことだな、と考えたわけです。
どうかな…。
1位か2位か、勝つか負けるか、できるかできないか…。そんな競走(競走)の尺度だけではなくて、違った楽しみ方、その表現。これは、例えば『障がい』があるとかないとか、そういう線引きすら無用です。だって一人ひとりが、そもそも違う、という前提に立つからです。一人ひとりは違って当たり前、でもその違いを合わせて、どう仲間の最大限のパフォーマンスを発揮し合うか。そういうことですもの。
「職員室在り方」ともつながっていきます。
それを子どもたちが教えてくれた、とも言えそうです。
「どんな運動会にしたい?なるといい?」
という問いからスタートしながらの試行錯誤の一つの着地点でした。
次の有りよう、有るとすれば、誰かの合図、号令で走るのではなく、自分たちのアイコンタクトなんかで
(いくよ!)
って感じで走り出すとかね(^_^)。
さて、
「どんな学校にしたい?なるといい?」
レイヤーをちょっと上げて、次のステップかな、みんなで。