「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか」(内田樹・高橋源一郎)を読んで
「どうやって楽しく負け戦をしていくか」
この言葉は、非常に興味深い。
ちゃんと読まないと、この言葉だけでいろんな誤解?を生みそうだし、そもそも私がこの言葉から受け取っているメッセージだって、「正しい」とは限らないわけで。
本書では、「大人のリアリズム、それは『人間いろいろ』」「本当の大人のリアリズムってさ、『人間って、何に価値を見出すかって、人によって違うよね」っていうこと」と述べている。
ここだけ、こうやって書いてしまうと、
「それは当たり前でしょ」
ってことになるんだけど。多分。
でも、それが「どうやって楽しく負け戦をしていくか」ってこととつなげて考えると、私にはとっても
(ああ、そういうことですよねえ…)
って思う。
「そりゃあ、当たり前でしょ」
「そうすべきでしょ、当然」
「そもそもそういうものでしょう?」
そういうことって、結構ある気がします。でも、その流れに乗っかって
「そうそう」
「その通り」
とすぐに一緒に走り出すのも、どうかな~って思う。
一方でそれに抗って
「そうじゃない」
「違う」
なんて言い切っても、それはそれで同じ流れにすぐに乗る、という点では同じことだし。
「なるほどねえ、そうですか~、そう考えますか~」
なんて、とりあえず留保してみる態度、そんなことがいるんじゃないのかなあ、なんて感じる。
「負け戦」っていうと、なんかネガティブな印象があるかも知れないけれど、それはある意味「常勝」はないからって前提の言葉。ずっと右肩上がり、ずっと成長し続けるとか、そういうのはないのだから、どうやって不時着するか、そんなイメージなんだと思っている。楽しく、不時着する。
負け戦、っていうのは「戦わない」ってことでもあるんだろうなあ、と勝手に思っている。
勝ち負けの価値観だけに縛られない、そんな感じかなあとも。
ちょうど、この本の流れからさらに読み進めた、「きのくに子どもの村の教育」にはそこの理想・旗印として次のように掲げている。
「自由な子どもとは、感情面で解放され、知的好奇心と考える力を持ち、共に生きる喜びとそのための知恵を持った子どもである。」
こことも、つながる気がするんだなあ。