イメージできること、想像できること
けっこう、これって大事なんだと思った。あらためて。
そして、これって結構不安定なもの。
臨時休業中の学校。
ある先生と一緒に、屋外作業をしていて。
「ここがさあ、ここが子どもにとってどんな場所になるのか、そんなことを想像するとやる気が出てくるんだよなあ。」
「子どもたちが集まって、遊んだりいろいろ発見したりしてな。」
「結構、この想像するとかイメージするっていうのが、学びでもあるんだよなあ。」
と。
私のアンテナが立った瞬間。
想像する、イメージする、それは「想像できる」「イメージできる」ってこととも同じ。
それは、ちょっと先を考える、ずっと先を考える、未来を考える。過去も踏まえて。「今」だけじゃなくて。
見えないものを見ようとする心構え。それを楽しむ感じかな…。
ああ、想像するのって、自分や環境に余裕があったほうが圧倒的に楽しくできる気がする。それに楽しい想像でないと、なんか気が滅入る。(そっちのほうの想像はけっこう広がりやすい気もするし)
「百聞は一見にしかず」は「一を聞いて十を知る」と実は同じ。
「分かること」も「分からない」ことも表と裏。まったく同じになってくる。どっちでもいい、って感じでもある。
「どうなるかな~、楽しみだな~、ワクワクするな~」
そんな想像が半分くらいあるといいな。うん、半分でいい。
不安定なまま、ってこと。
月の表と裏とをぐるぐる回りながら明るい部分を見たり影の部分を見たりする、そんなイメージ笑。または、太極図。
https://www.yoga-gene.com/post-1410/
そこにきっと、「体験」っていうのがベースにある気がするだよなあ。そんな体験をしてきたか、それで想像、イメージの範囲も変わってくる気がする。最近の自分の好きな言葉でいうと「身体感覚」かな…。
「こうかも?」「こうなるかもしれないな…」「たぶんこうかな~」
「試してみるか…」
「なら、こうしてみるか…」
安定か不安定か、言われれば不安定。そうだな、「想像」はそもそも不安定なものだな。
その不安定を「楽しい」と思うか「怖い」と思うか。
「ここが子どもにとってどんな場所になるのか、そんなことを想像するとやる気が出てくるんだよなあ」
その想像を、ある程度確信できるのは、おそらく、これまでの経験則。
この「想像を支える経験則」を積み上げていくこと、それがまた「学び」なんじゃないかとい思ったこの日。
学校の「今まで通り」がなかなかできない今。でも、そんな中で、どの子にも豊かな経験ができるように環境を整えていくにはどうしたらいいのかな、と考え込む。
それは、私的には、やっぱりオンラインじゃない。発信している自分に身体感覚は感じられたとしても、相手の(子どもの)反応、感覚は私には十分感じ取る自信がないから。ツールの1つであって主にはなり得ない。あくまで、私は、です。自分の経験と環境、スキル、嗜好からも。
もっと身体感覚を伴ったもの、を私は大事にしたい。
その手段はきっとさまざま。
さて…、どうしようかな…。まさに、ここに「想像力」だな、きっと。
一方でこういうことも考えておかないとね、と。
それは矛盾しないはず。