先日、集まった仲間と一緒に
「対話とは?」
を一緒に考える、そんな時間がありました。
3時間、ぶっ通しで。終わってからも、時々思い出しては、またその話を続けたりしたから、もっとかもしれません。
「自分の内側を見る」。
自分の思い、感情がどこにあるのか、そこを自分に問いかけて探す作業とか。問いかける先は自分。で、それをそのまま出してみる。説得するわけでも分かって欲しい、でもなく。
一方で。
「共に歩みたい」「共に生きたい」思いが合わされば、対話は自然と生まれる、かな。異なったピースを合わせようとする、そんな作業。いや、そんな境界線がはっきりしたものではなくて、その境界線だって自由に可変する、そんなピース。境界線は限りなく曖昧で滲んでいる、そんな感じ。グラデーション、それが常に流動的に変わって行く。それでいて、「ふろしき」は共有している、その土俵はつまり「共に…」ってことかな…。そこをお互いがお互いの色を大事にしながらきれいなグラデーションのふろしきを広げていっている感じ?
「器を創る」 - 次の場所へ行こう (hatenadiary.org)
この時の「器を創る」ってそんな感じなんじゃないかな、と思った。
「器」という境界線がはっきりしたものに合わせて中身を入れるのではなくて、中身に合わせて器を創る、そのプロセスに対話がある、そんな感じかな…。
器に入りきらないな、となれば入る「器」を対話しながら、創ればいいってことだな。それが「共に」をあきらめない(そんな肩に力が入った感じではないにしろ)、在り方なんじゃないかな。
全然、まとまらないけれど、とりあえず、出しておく。