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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。社会教育士。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。https://note.com/bandai_gradation/

■遊びと学びと評価

■遊びと学びと評価

 この日はオンラインの読書会があった。

 このときの私の中の関心事は「遊びと学びの連続性」という言葉。

 今年の私のこだわりワードは「遊び」だから、まあ、そこだなあ、という感じ。

「遊び」とか「学び」とかっていうラベルは、今の私の感覚では「ラベル」でしかない。その中身が何であるかは人によってまったく違うわけで(よく言えばその人の見方考え方、悪く言えば都合)どこがどう違うかなんてはっきりとした区別はできないと思っている。

 私個人の中でも、「遊び」も「学び」も、その捉えは昨日と今日ではその度合が変わってくるだろうし、ましてや10年前と今ではまた、まったく違う。ひどいときには、その時の気分によっても左右されかねない。

 結局、「遊び」も「学び」もおんなじ、ということになる。私の中では、今は。

 
 加えて話題になったのは、「自由」「評価」。

   
 参加している方の話を聴きながら、
(ああ…)
って思ったことは、
(「今は学びの時間です、遊びの時間ではありません。」なんてフレーズを使っちゃう時って、要は自分がそこを支配したい時なんだよね…)
(区別しちゃうときって、その言葉の定義を自分で決めてそれを他者に押しつけたい時でもあるかな…)
(「評価者おれ」、を他者にも当てはめようとしている、とかー??)

 「学び」って言ってしまうと(よくないとは思うんだけど)なんか権威づけるような圧を与えることができる気がしちゃうな、そういう使い方の場合。
「学び、なんだから!」みたいな。

「『ちゃんと』しなさい」
「『正しい』ことなんだから!」

効率的に、ことを進めるためのワード(笑)
「正義のために!」とか「子どものために!」
と似ている笑。
 思考停止になりますね…。

「そうは思わないんだけどな~、ボクは…」
って言えることがとても大事だと思うし、それと同時にそれを「受け取る」他者がいることも大事。

 そういえば、この前の社会科で「国民主権」を6年生のみんなと考えていたときに
「せんせ、自分の意見を伝えることと受け取ることはセットですよね?」
って言った子がいたけど、まさにソレ!

「なんで?」とか「私は違う意見なんだけど…」
というときに
「あ?そう?じゃあどうする??」
「一緒に考えようか-」
って話し合えるといいんだよね、って思う。余裕、ゆとり、かな。

 それは、なかなか面倒くさいことなんだけど、そこをやらないとやっぱりお手軽な「評価」(というジャッジ)に頼ってしまうんだよねえ、って思う。


 今の自分は、他者からの評価から(わりと)自由になっているから、
「遊びも学びも本当は同じだよね、区別できないし、私はそうする必要性も感じないなー」
って言えるけど、区別した方が安心安全で都合がいい人もいることは承知している。

 


 結局「学び」と「遊び」に違いがあるとすればナンダ?


 「学び」には評価があって、「遊び」には評価がない…のかな?
いやいや、遊びだって
「いやあ、今日はおもしろかったねー!」
「ねえねえ、今度はこうしたらもっと面白いかも!」
「おお!いいねー!」
って思うから「評価」はあるなあ…。

「学び」はさせられるもの?いやいや、そうじゃないなあ…。それじゃ残念すぎる笑。
「学び」は一生懸命?「遊び」は気軽?(いやいや、夢中になるよね…)


 ああ、誰かにゴールを決められている「評価」があるとき、自分以外の誰か「だけ」が握っている規準(基準)があるときは、つまらないんだな…。


 「学び」か「遊び」かって話でもないなあ。やっぱり区別することもないんじゃない?
「楽しい」「おもしろい」「わくわくする」「うれしい」…自分のものさしと、相手のそれとを出し合って
「どう?ぼくのものさし、こうなんだけど…」
「ほう?わたしのはこうですが…」
なんてことを、いつもできたら「学び」も「遊び」だし、「遊び」も「学び」になるんじゃないのかなー。

 この、ある種、めんどうくさい一手間をかける余裕をもっているか、そこに価値を見出している「自分」がいるかって話になってくるんだなあ。


 あえてめんどうくさいコミュニケーションに踏み込むか、避けるか。


 ミヒャエル・エンデの「モモ」では時間泥棒が出てくるけど、時間どろぼうのせいでああなったんじゃないよね、って思う。だって時間泥棒は自分の中にいるんだもんね。

 ああ、やっぱり自分に戻ってきたなー笑

 やっぱり、最後は個人に帰着する。ゴールはないってことだな。そこから「評価」も考えたいな。(きっとゴールはない…)

 

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