われわれが言葉を持たなければ、彼らと会話ができる。」
ゴリラの研究で有名な山極寿一さんの言葉から見つけました。
「言葉を使うのは『分類する』ことですよね。名前をつけることで、本来は『違う』ものを『同じ」カテゴリーに入れる。
「実はこれ、自然界では起こり得ないことです。そもそもが違うものだから。違うからこそ、コミュニケーションをしたくなる。」
もちろん言語化することで便利なこともあるのは確かだとは思います。言語化することで安心だったりすることもあります。でも一方で
「言語化することでこぼれ落ちるものがある」
ということにも意識を向けておきたいなあ、と思いました。
言語化すると、なんか「分かった」気になります。
「ほら、あれだよ、〇〇〇」
「あー、あれね、〇〇〇、分かった分かった。」
でも、それは本当に同じことが「分かった」のかは実は分かりません…。ある面「分からない」で済ませるために、言葉で「分かった」ことにする、みたいな場面もあるような気がします。
言語化、という情報化が先に走って行く、そんな感じ。
当の本人たちのリアルな感情が、が抜け落ちているている?
敢えて、抜いている?
誰かに何か伝えようと、なんとか言葉にしてみるけれどしっくりこなかったり、うまく伝わらなかったり。思いや考え、気持ちなんかだと余計にそれで。自分自身に関しても、今自分が何を感じ考えているのかがうまく言えず、「もやもや」を抱えたままになってしまうこともあります。
もやもや、もやもや…。なかなか面倒くさい。
そうか、面倒くさいんだな…。1つ1つ違ったものにフィットさせようとすると、いろいろタイヘン。時間も手間もかかる。そんな面倒くさいことするなら「情報化」して、「分かる」にした方が速い、ってことになりますか。
人と同じことは安心だけど、人と違ってもいたい、その両方がちょうど良くあるといいんだなあ、と思います。
「同じ」を意識するには、部分に名前を付けて言語化、情報化して区切り共通項をつくってくのが1つのやり方になっているように思います。そもそも違うものを「同じ」にする作業、技術ってことかな、と思います。
技術、システム、なんだな、たぶん、これ。
技術やシステムというある意味、整理、均質化された中から、こぼれ落ちているものがたくさんあって、実はその中に大事なものがあったりするんじゃないか、そこがリアルな生の感覚みたいなもの?
山極さんは、別なところで「生活のデザイン」って言葉を使っています。
ああ、デザインかあ。
デザイン、を聞いて、ふと思い出したのがこれ。
http://www.asahi.com/and_edu/articles/0014/?cid=nat_pc_3
デザインは人が中心にあるんだな…。
そして「もやもや」は続く。
いったん、「ねかして」おくことにしよう…。