■「正しい」を一緒につくる
「だめ」をはじめとする「禁止」はコミュニケーションを阻害する言葉になってしまうこともある。だめ、となってしまったら「だめ」だから。
シャッターガラガラ…笑。
クラスでは「~していいですか?」は(基本)「禁止」笑
そう言われると、私は必ず速攻で
「ん?だめ~笑」
と言います。
「自分でそうしたいとか、そうすべき、って思うのなら『~したい』って言えばいいよ。」
「あなたがそうして、私が困るようなことがあるんだったら、そこで相談すればいいよね。基本、憲法に反しないことであればいいんだから。基本的人権の尊重。」
と笑っていいます。
はじめのうちは、なんだかんだと
「~していいですか?」
とつい行っていた子も、
「~したいです。」「〇〇いってきます。」「〇〇しますね。」と言うようになってきます。私がそれで都合が悪いときは、
「あ、それ、今じゃないとだめ?」「それだとちょっとまずいんだな~、なんでかっていうとさ…」
と相談するしかありません。
「じゃ、これでいきますか!」
とお互いに合意形成を図りたい、と思っています。
もちろん、それは、教室の管理者として緊急かつどうしても、というときはトップダウン的な「だめ」を言うときがあります。それでも子どもたちには
「そういう時には、分かってもらえるようにちゃんと後からでも説明するから。」
と話すようにします。大人の事情だってあるから。子どもはそういうときでも理解してくれます。
基本「だめ」を言いたくないのが私です。
子どもたちには「~たい」を真ん中に据える生き方をして欲しいから。「~していいですか」ではなく。自分の中にある「~たい」を大事にして欲しいと思っています。そこには必ずわけがあるんだと思っています。
でも自分の「~たい」と他者の「~たい」はぶつかってしまうことが多い。こうしたい、とこうしたい。教師と子どもとの関係であれば時に「こうさせたい」と「こうしたい」かな…。
その、「たい」と「たい」がぶつかった時こそコミュニケーションのチャンスなんだな、と思います。他者との信頼関係が足りないと、そのコミュニケーションを避けてしまいがち。とりあえずぶつからないように…したほうが「楽」なことも多い。傷付きたくないし、傷つけたくもないから。
でも「たい」と「たい」はどちらも「正しい」。だからこそ、どっちが正しいか誤りかってことではなく、どうするとお互いにとっていいのか、そんなちょうどいいところ、塩梅、折り合いどころを見つけるのがコミュニケーションなんだと思います。
困ったときこそ話し合う、オープンに話し合う、そうしたい。
それは、「あなたとはわかり合えるはずだ」という信頼感だったり、「わかり合いたい」という思いだったりから生まれること。
責めているわけでも、私の「正しさ」を主張するわけでもないんだなあ。
誰もが「正しい」。
オープンに話し合えるってことはとっても大切にしたいこと。大人だって子どもだって、大人と子どもだって同じだと、私は思っています。
「私たちの正しい、今ここ」をつくり続ける作業だな~。