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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

■「…ってなんだろう?」

■「…ってなんだろう?」

 最近、特に言葉での理解って何だろうな?って考え込んでしまうことがあります。

 例えば、ワークショップなんかに参加していて
「市民ができることってなんでしょう?」
と聞かれました。

(市民…)

 え?「市民」って誰?って感じです。
もちろん、その市に住んでいる、住民票のある方が「市民」なんでしょうが、その
「市民ができること」
って言われても、私が言えることは何もなくて。

 「私にできること、できそうなことなら言えますけど…」
なんて言い方になってしまいます。

 その他にも、ニュースなんかで
「丁寧に」とか「自由で開かれた」なんて言葉を耳にしても
(誰が誰に対して?誰がそう感じればいいの?そもそもどういうのがそういう状態なの?誰にとってなのかな…)
なんてことを考えてしまいます。

 まったくもって、言葉ってそれ単体では意味不明…って感じです…。あー困った。


 説明すれば分かる(伝わる)、書いてあれば分かる(伝わる)、書いてあるから「事実」…

 うーーーーん…そういうじゃないよなあって思います。

 
 分かる・分からない、伝わる・伝わらない、そんなことをぐるぐる回転させながらだんだん隙間を埋めていくそんな作業と時間がないと、お互いの納得「感」って生まれてこないんだよなあ、というのが私の実感。


 確かに情報はたくさん流れて、「知る」ことは多くなったけど、その分「隙間」がどんどん広がって訳が分からなくなって、仕方がないから「分かったこと」「伝わったこと」にしてしまおう、そんなことになってはいないかな…と考えています。


 お互いのコミュニケーションが希薄になったとか、だからもっと分かりやすくとか手軽にというのも分かるけど、一方で「わかりにくい」「やりにくい、伝えにくい」とかそういう中に、も実はお互いのコミュニケーションを促進させるものがあるんじゃないのかな?なんて。


「分からない」「伝わらない」「伝えにくい」の中に、どっぷり浸かってみたい気もします。

 

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