■「教育の成果」、ってなんだろうな?
「あれ、なんかずいぶんドリルをたくさん進めてきたんだねえ?」
と〇君に聞くと
「はい、シャーペンの芯、ノック4回分でどのくらい書けるのか試して見たんです笑」
「けっこう書けるんですよ、折らないで書ければ芯1本でかなり書けることが分かりました!」
と。
「なぬ!笑」
なんか面白い。私はけっこうこういうのが好き。だっておもしろいじゃないですかー笑。
〇君、理科や算数が好きで、元素記号を調べてきたり円周率を何桁まで暗唱できるか試していたりとか、今までいろんなことをやっている。そういえば、外国名の漢字表記や外国語の挨拶の仕方をたくさん調べてみたりとかも。
しばらくの間、アラビア語で挨拶していた笑。
最近はアニメのキャラクターをリアルに描くことにも何時間も掛けて取り組んだりもしているらしい。
確かにゲームも好きでもあるんだけど、それは何かを追究したり、何かにチャレンジしたりするのが好きってことでもあるんだな。
ゲーム、って部分にだけフォーカスしてしまうと、「あれれ」な部分もあるかも知れないけれど、それは「ゲームだけしかしたくない」とはまた違うんだと私は思っている。
広く見ると「突き詰めるのが好き」「機械とかメカニカルなものが好き」「論理的規則的になっているものが好き」そして「挑戦するのが好き」ってことでもあるんだと感じている。
そう考えると、やっぱり学校で行う学習だって、その特性をまっとうに活かすことができる。幅も広がってくるし楽しんでやれることが多くなってくるんだなあ、と思う。はじめから間口を狭くして、「ここのところ」なんてやってしまうと、一見分かりやすい成果は見えやすいかも知れないけど、なんか面白くない…笑
だから、ゲーム=困った、ではなくて、そこはそこで、そこから見える特性を価値あるものとして位置付けていけば、そのよい活かし方なんて自分で探していけるのではないかと思うんだなあ。
これ〇君だけでなくて、般若心経を全部覚えて木魚を使って唱えることができるようになってしまった□君(最近は写仏や写経にもはまっている、仏像マニアにもなってきた笑)にも当てはまるし、まあ他の子も…。けっこうカオス笑
「自分の『たい』をちゃんと表明し、うまくいってもいかなくてもとりあえずやってみるか?」って感じでいいかな、とも。面白ければ続ければいいし、飽きたら一旦やめておく。
やめたことだって、好きで始めたことならば決して無駄にはならなくていつかはまた何かとつながって行くんだろう、と思う。一旦停止、なだけで。
何を成果とするか、何が成果か、何をさせるか、なんて私が(教師や大人が)あんまり決めすぎないでいた方が、かえってその子の特性を際立たせることができるんじゃないのかなあ?なんて思ったり。
「教育の成果」なんて(誤解を恐れずに言えば)あんまり考えなくていいのではないかな?なんて思ったりもするんだな。最近そんな感じ。