■「話せば分かる」?ということ
クラスの子どもと、道徳。
テーマは「話せば分かる、ってどういうことか」
でした。
今回は、資料文を読みながら
「これ、どう?」
なんてことをお互いで話しながら。
〇「話せば分かる」は「話しても分からなかった」があるから、あるんだね。
〇「そもそも、本当に『話せば分かる』のかな?」
〇「『話しても分からない』と『話したから分かった』の境目はどこなんだろう?」
まあ、そんなことを一緒に考えていたわけです。
登場人物AさんとBさん。そして「みんな」という第3者も資料文には出てきます。
AさんとBさんが対立してしまう場面があって、その後「話して」すっきりした、みたいな話。(超省略形…)
AさんとBさんは、そもそも「話した」から対立もしたわけです。何も言わなかったら対立さえ起こらなかったはず。(問題はそのまま残っただろうけど)
「でもさ、このときは、強く言いすぎたんだよね。だから、話したことにはならないんじゃない?例えば~」
なんて、言いながら、ちょと劇っぽく。
「あー、こんな感じだとするとちゃんとは話せなくなるねー」
と。
なるほど。
「周りにいた人の反応も、これでよかったのかなあ?」
「うーん…」
「『いじめてるように見える!』なんてAさんを責めてしまったら、それはそれで、あれじゃない?」
「うん、そう言われるとAさんも何も言えなくなるね。」
「そうだよねー。周りの人はどうしたら良かったのかな?」
この資料文では、この対立が起こった後、しばらく時間をおいて、あらためてAさんが
「あの時のことなんだけど…」
ともう一度話を出しています。
私と子どもとの間では
「ああ、ここ大事だねー」
って話になりました。
「話せば分かる」って、「話せば分かるってもんじゃない」でもあるんだな、と一緒に考えながら思いました。
「分かり合いたい、って双方が思っているかどうか。分かり合いたければまず相手のことを分かろうとするから始めないと」
そんなことを道徳の時間に、私は子どもと一緒に考えたりしたのでした。
こんな場面は、学校でもたくさん出くわします。
その場面で、実際にどう考えた?どうしてみた?それでどうなったの?みたいなことを日々、一緒にやりとりしていくことなんだろうなあ。
そこが、「教室、学校づくりはコミュニティづくり」にダイレクトにつながる、ってことでもあるんだろうと感じます。
つまり、大人も子どもも同じだなー。