「うちの1年生、さっぱり勉強できなくてねー、まいっちゃうよー」
浜仕事の手伝いに来ていた、あるお母さんが嘆いていた。
他校の1年生のお母さん。
始めて出会う方だったけど、作業しながら、一緒におしゃべりした。
私は
「まだ1年生でしたら、今からそんなに焦らなくていいんじゃないですか~。むりむりさせちゃうと『べんきょうきらい!』ってなっちゃうと、それが一番こわいかな~」
なんて言うと、
「そんなこといってもさー、中学になってからじゃ、絶対追いつけなくなっちゃうじゃない?」
って言われて。
「そうなると、塾に行かせないといけなくなるじゃない?」
なんて話にも。
「勉強ができない、より、できる、ほうがそりゃあいい」かも、だけど。
その場合の「べんきょう」とは何を指していて
「できる」とは何を指すのか。
そこは、きっと私が思っていることと、その始めて出会うお母さんが思っていることはきっと違うだろうなあ…と思う。
だけど、そこで私はそこであんまり詳しく話すことをやめて
「なるほど、そういうことですか…」
としか応えられなかったんですね。
私が、ほぼ毎日、子どもの日々の様子をドキュメンテーション風に学級通信でおうちの方に届けるのは、つまり「子どもたちの毎日」がどんなふうに進んでいて、「子どもたちが何をどう思い」「何に喜び」「何にがっかりし」「そこから何をして」「うまくいっていることはこんなことで」「うまくいっていないことはこんなことで」、それを私が「どんなふうに考えて」「彼らに何を求めて」、最終的には「みんなでどんな方向に進めたらいいな、進んでいこうぜ」ってことになったか、そういうことを子どもたちと試行錯誤している現在進行形を伝えるため。
エピソードの共有。
その上で
「勉強」ってそもそも何か、「できる」と「できない」って何か、そんなことを「一緒に考えていきましょう」ってことをメッセージとして送っている、そんな感じなんだな、と思います。
「勉強ができない、より、できる、ほうがそりゃあいい」
うん、たしかにそうなんだけど。
そして、目指すのは、「その子」の幸せな毎日、人生、であることには変わらないんだけど。