教員になって、始めて自分で意識的に学んだのは「生活綴り方」でした。
もっとも、始めからそれを学ぼうとしたわけではなくて。
若かりしころ、出会った校長先生が
「おい、これを読め。3日で。それ以上かかるようだったら、読まないだろうからすぐ返せ」
といって渡してくれたのが、その「生活綴り方」関連の本でした。
当時は、
「どういうこと??」
って感じで受け取った本でしたが、そこから学んだのは、作文の出来、ではなくて「解釈」という捉え方だったように思います。
2行の「作文」から、自分は何に読み取るのか、読み取ることができるのか、今までも出来事やその子の状況とを鑑みて、どう「解釈」するのか、そんなことを問われているように感じました。
そこから、県内の「作文の会」や「日本作文の会」に所属する全国の方々から学ぶよいうになったでした
1枚文集を出して読み合うことも、「その子理解」をみんなで行うことでもあり、お互いに理解し合う、行為や出来事の解釈をみんなで行う、そんなことを意図していたんだと思います。
「一枚文集」というスタイルは今はとってはいませんが、子どもたちの毎日や活動、言葉、気付き、そして私の解釈を記述した通信はほぼ日刊で出します。それは、私にとっては、学級運営に必要不可欠な、私と子どもと保護者の方々とのエピソードの共有だから。これ無くしては…という、私にとっては大事なもの。
目の前の事実をどう解釈するか、それを自分で吟味したり子どもたちと共有したり話し合ったりするなかで、「思い込み」「決めつけ」を排し、幅を持たせ曖昧さを常に担保していく、そのままでまずは進んでいく、それでもOKという切符を与えてくれた気もします。
それでいいんだ、とも思います。
解釈はいろいろあるよね、ってことだから。黒か白か、だけじゃないので。