よくよく考えて見たら、私って
「子どもたちが他者と良好な心地よい関係をつくるための場をいかにつくるか、もしくは邪魔しないか」
を考えながら、そこにいるんだな、と思いました。
これって、今思えば
(そりゃあ、そうだったよね)
って感じもするのですが、案外新鮮な感覚だったりします。
イエナプラン的にいうと、端的に「自立と共生」ってなります。
『学び合い』でいうと「ひとりも見捨てない」になりますか。
だから、教科の時間であろうと行事であろうと、掃除の時間であろうと、全部「同じ」なんですよね、感覚的に。
語弊があるかも、ですが、「できるかまだできないか」「するかまだしないか」なんて、ある意味どうでもよくて、それらは全部プロセスの中に抱合されるものでしょ、って感覚です、今は。
だって、誰だって自分の人生を幸せに生きていく、そこが目的なのだから、だったら、毎日の学校生活の中で、「自分の強み・特性に気付きそれを活かしながら、他者と共に良好な関係を築く、その積み重ねや試行錯誤をする」を重要視するのは、私にとっては「当たり前」であり、それが「指導」でもあるのです。
だから、「放牧」ではあっても、放任じゃないんです。
私にとっては、ですが。(※放牧って言葉も、本来適切ではないと思いますが。イメージです。)
必然的に、常にそこそこ「不安定」を維持するというか。バランスボールに乗っかっている、そんな状態でありながら「安定」をみんなでつくるというか。そういうプロセスを意識するというか。
なるべく、居るだけでいいようにするのが私の「指導」なんだけど、そこがなかなか分かりづらいだろうな、というのも分かります。
だって、今まで「する」「させる」のが「指導」だったりしたのでしょうから。
結局「自立と共生」を、またまたもやもや考えることになります。これはずっと続きますね。相手と環境は、そして自分の状態もいつも異なりますから。