「手厚い」ってなんだろう、と考えています。そんなことを思っていたら、たまたまこんな記事もあがっていました。
学校現場では、よく「手厚い指導、支援、サポート」なんて言い方で使われることがあります。
すごく簡単に、いうと
「手厚い指導をするために、1学級の人数を減らして」
とか
「支援者を増やして」
なんていう文脈で使われることが多い気がします。
「手厚い」
意味の辞書的な意味は?、と、ちょっと調べてみたら
「もてなしや扱いが、行き届いて丁寧だ。」
とあります。
ふむ。「いいこと」ではありますね。
誰から見て、そうか、が大事。「手厚い」からいいじゃないか、と一方的な話ではないですよね。あくまで「手厚い」かどうかは個別具体的な問題で、双方にとって「手厚い」となるには、お互いの関係性に左右されるケースが多い気がするから。つまり、お互いでちゃんとフラットに対話できるってことでもあります。
私が「手厚いな」と感じる時は、困った時に必要なサポートが複数あったり、それを自分で選択できたりするときかなあ、と思いました。だからサポート体制はあっても、それが利用されない、利用しなくても大丈夫、な状態であればそれが好ましいだろう、と私は考えます。何かあったときにいつでも「手厚く」できる体制を準備しておく、って感じ。体制における「あそび」「ゆとり」かな。セーフティネット。
学校に関していえば、子どもはそもそもできない存在だから、子どもたちに何かをしてあげる、同じ事を同じようにあまねく「させる」「指導する」のが「手厚いこと」と理解されている節もなきにしもあらず。もちろんそれが大事な場合やこともあるから、それがだめではないわけないじゃないです。
ただ「手厚い」という言葉のもと、どんどん子どもが自分で行動選択する機会が減っていったとしたら、それは「手厚い」ではないと考えます。
やっぱり、対話ですね。
何が、本当に「手厚い」のか、そこを考えたいしそういう関係をていねいにつくる。
ただ、今までの学校の常識をいったん脇において、そもそもから考える必要はあると思うんですよね。
時代は、かつて今のような「学校教育」がスタートした時期とは大きく異なっているから。