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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

■どこからどこまでがイチゴパフェか

■どこからどこまでがイチゴパフェか

 

 あるラジオを聴いていたら

「どこからどこまでがイチゴパフェか?」

みたいな話。

 

 はっきりとした線引きはあるのかな?

 イチゴは何個以上とか?

 必須条件って何?

 そもそもそういうのがあるのかないのか?

 あるとすれば、誰がそれを判定するのかな?

 

 そこで私が思ったのは

(世の中、本当は曖昧でそう簡単に、線引きできることでできていないんだよなあ)

ってこと。

 

 曖昧なままでいるのは、なかなか不安なのも事実。

 はっきりしていたほうが安心なことも多い。

 だから、ある面、線引きが必要になることもある。

 

 そうしてだんだん、その線引きされた中で、

(なんか苦しいかも)

って感じることが出てきたりする。

 

 そういう時に、ちょっとそこを乗り越えて、

「ねえねえ…」

とコミュニケーションを再開する余地がある、そういう余地を残しておく、そういう乗り越え方ができる人を一定数抱えておく、増やしていくといいな。

 

 ある種の「線引き」もしながら同時に壊してもいく。線はあるけど

「今はそれはなしでもいいよね」

「そうだね」

「じゃあ、今回の場合はこうしようか」

的な、緩さもあっていいかな。

 その都度、適宜、線を引き直す、というかつくりなおすというか。

 

 その繰り返し。

 

 そうか、一緒に「つくる」場面、機会があることだな。

 

 

 

 曖昧さをある程度抱えていられること。

 「ねえねえ…」とコミュニケーション再会できる、ちょっとした勇気があること。

 そこから「じゃあ、一緒に考えよう、つくろう」が始まること。

 

 喫茶店の、隣の席のおじさんたちのおしゃべりの声がでかすぎて、なんか集中できない…。

「ねえねえ…」

とは言えなかった、私もおじさんである、はは。