■ネガティブなことばだって
先日、「持久走記録会」のことを書きました。
そして、そこからまた考えたことを。
持久走、ですから、走るのが得意じゃなかったり、必要以上に順位に拘っていたりすると
「走りたくない~」
「疲れる~」
「その日休みたい~」
なんて言葉も、漏れ出てくるものです。
それは、仕方ない笑。
走るのが苦手だった私は
(いや~、わかるぜー)
って気持ちになります。
ずっと前の、若い頃の私だったら、そんな自分を棚に上げて、
「何いってるの。がんばれ~!」
などと言っていたなあ、と思います。
「教員」くさい…笑。
でも今は、
「そっか~、走りたくないんだ~」
「んだなあ、疲れるよなあ。」
「なるほど~、休みたくなっちゃうんだあ~」
なんて言いながら、その後、その子がなんて言うのかな?と思って待っています。
「だってさ~」
なんて話が続いてくれば、
「うんうん」
と聴きます。
聴いているうちに、あははは、とお互いに笑えることも多いものです。
そういう、一見ネガティブな言葉を出せるってことも大切にしたいんですよね、私は。だってその気持ちも、分かるから。
言いたく鳴りますよね、誰かに。
でも
「走りたくない~」
と何回も言っているうちに、そしてそれを聞いてもらっているうちは、きっと大丈夫。走りますよ、経験上は。反対に、
「何を言っている!走れ!」
なんてことになると、あんまりいいことはならない気がします。
ただ。
それって、私のキャラでは、そして私のキャラで関係を作ってきたその子だから、の場合。もちろん、「走れ!」って伝え方・関わり方でも、ちゃんとその子の応援ができる人、関係性だってあると思います。
だから、
「がんばれ!」
と言ってはいけない、と思っているわけではないんです。ただ
「がんばらせることが大事」「必死にやるのが大切」「結果をだすことに意味がある」…そういうことを、一面的に「分かりやすく」捉えてしまうと、危ないんじゃないかな~と思うのです。(「学校」はそういうところもありますから。)
子どもの様子やそれまでの背景も、そして自分のキャラも考えずに「ガンバラセル」にだけ走ってしまうと、その子が、自分の意志で、自分でチャレンジすることをやめてしまうような気がするのです。
その子が、最終的に心から
「やってよかった」
「楽しかった」
と満足できればいいわけで、そのためのプロセスを、自分とその子と、この環境のもとで、どう一緒につくっていったらいいかな、と考えて見る、試行錯誤してみる、そんなことを私は大切にしたいな、と思うのです。
その「最終的に」というのだって、「今回の持久走記録会」であればなおいいし、もしかしたら10年後、20年後に
「なんか、走るの、楽しいじゃん」
って思う、その時点かもしれませんし。
焦らず待つ、応援しながら待つ、そんなことしかできないかな、と思うのです。今はネガティブな言葉を出したとしても、ずっとそれが続くわけではないと思うので。