昨日は、地元研究サークル「あすみの会」の12月例会。
まあ、今回は、集まったメンバーで、緩く
「どんな1年だった?」
的なおしゃべりだったのですが、やはり、そんな緩い枠でも信頼している仲間とのそれからは、たくさんの気付きが得られるから、不思議です。
さて。
おしゃべりの中でこんなエピソードが共有されました。
「掃除の時間になったんだよね、でもさ、ある子が夢中で本を読んでいたんだよね。で、その子、『あー、あと5ページで読み終わるから、ちょっと最後まで読ませてー』って言うわけ。それで、『…だってさ、みんな、いい?』って聞いたら、みんなも『オッケー!』って言うからさ、じゃそれで!ってことになるよね。だって、その子、後からちゃんと掃除に加わるって言ってるんだし。」
「そういう時に、『今は掃除の時間だからだめ!』なんて、ないよね。読書好きにしましょう、とかなんとか言っているんだし、そこは止めなくてもいい場面だと思うんだよね。」
私も、そっち派、だなあ、と思いました。
だってその子、夢中になっているんだもん。いいじゃない、ちょっと待ってあげても。したくない、って言ってるわけでも無し。そのメンバーもOK、って言ってるんだから。
そういう、「ゆるさ」って、私は、とっても大切に考えています。それこそが、「お互いを大切にする」という点で「ちゃんと」しているって思うから。
大げさに言えば、その子のことを、メンバーが「ちゃんと」受け入れているから、それが成立するわけで、もっと言えば、担任の先生(集団の管理者)がメンバーを「ちゃんと」信用・信頼しているから、メンバーもそうできると思うんですよね。
私たちは、ただ受け入れてほしいだけ。褒めてもらいたいとか、尊敬してほしいとか、優れていると認知してほしいとか、そんなことことを願って居るわけではありません。根っこでは、たぶん。
「ただ受け入れてほしい」
で、受け入れてもらっているから、受け入れることもだってできるのではないかな。
このサイクルが回るって居ると、「ゆるい」居心地のいい(当社比)場が生まれる。それは、自分たちで「ちょうどいい」、を選んで、自分たちで「こうしよう」が選べる場。これが、私の思う「ちゃんと」した場。
一方で、誰かの決めた、誰かの「常識」に基づいた「ちゃんと」が、一方的に押しつけられるようになると、途端に場はギシギシ言い出します。そうなると、ますます「ちゃんと」が強く求められ、願いも思いも、困りごとも言えない、聞かない、そんなことは甘えだ…とかってことになっていく。
「ちゃんとしなさい」
ってことで。
それで、受け入れられないから、受け入れない、のサイクルが回り出すこともある。
で、「ちゃんとなっている」となります。
「ニワトリが先か、卵が先か」
「障害者ってだれのこと?」の中に、
「『差別のない社会』より、『差別があったら怒れる社会』に」
という記述がありました
「差別がない」を目指すと、「ない」ことにする、働きも同時に生まれる。カウントしない、認知しない、となればいいだけだから。なくならないけれど、あると感じたときにものを言う。そこから対話を始める。
サイクルを反対回しにするにはそこからしかないと思っています。
勇気がいりますけれど。
「良好なコミュニケーションは自然発生的には生まれない」
これは、私がホワイトボード・ミーティング®から学んだこと。
はじめは
(そうかな?時間がたてば、改善することもあるのでは?むしろそのほうは自然ではないかな?)
って思いもあったけれど、今は、それが分かる気がします。
「コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである」(内田樹)
私はこの内田さんの考え方が本当に好きです。
思いや立場、考え方、事情…。そんな「違い」が生じたときに、そこを受け入れた上で、コミュニケーションを再開できること。
そこを忘れずにいたいな、と思って居る。
ムズカシイのは、はい、分かっていますけれど。でも、です。