■そうか、揃いの「体育着」って確かになくてもいい~大日向小学校 学校見学②~
(あれ?体育着、ってないのかな?)
体育の授業が始まると聞いて、入ってみた体育館で最初の感じたこと。
子どもたちがたくさん居るんだけど、どの子も、「私服」。
(体育…って聞いたけど、体育?)
って思って「しまった」自分に、驚いてしまった笑。
そうか、私の「体育」の要素の中に、「体育着」があったことに、ちょっぴり、ショック…笑。囚われていた…。私自身、その「体育」的なところがきらいなたちなはずなのに。悔しい笑。
揃いの体育着を「いらない」とすることで、体育の学習場面ってびっくりするほど、やわらかくシンプルになるなあ、と感じた。
○前へならえ、いらない。
○赤白帽子、なくてもいい。(必要ならビブスでいい)
○体育座り、いらない。
○びしっと、とかいらない。
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体を動かすこと、仲間とそれを楽しむことにシンプルに気持ちを向ければいいんだな。
バレーボールを子どもたちが楽しんでいたのだけど、いい意味で、「レクリエーション」的で、
(ああ、これも体育だよな…)
(これが、体育、か…)
と考えたり。
私も、自分が体育を担当するときは、もはや
「前へならえ」も「整列!」も「集合!」も「体育すわり」も捨ててしまって、全然困っていない。むしろ、ない方がいいことを感じているんだけど、「体育着」までなくす発想はなかった…。
そもそも、なぞ、揃いの体育着でないといけないか、だな。「揃い」にする意味は何か…を考えると、そもそもの「体育」のルーツにたどり着くんだろうな、と思う。
多くの、「ふつうの」学校では、
「体育なんだから、びしっと」
「体育なんだから、前へならえ」
「体育なんだから…」
があるんじゃないかな?体育の「ふつう」
そういう「体育」ってなんだろうね。そこと「揃い」の体育着。
そして、「体育」の「ふつう」は本当に「ふつう」かってはなし笑
「体育着ないんですねー」
とスタッフに尋ねたら、
「みんなでお揃い、ってものは一切ないんです。」
と。一人一人は違う、自己選択自己決定。そういうコンセプトの元の、細部、なんだろうな。
子どもたちにも
「体育着ないのってどんな感じ?」
って聞いてみたら。
「え?いちいち着替えなくていいから、いいです。時間のむだ。もともと動きやすい服で着ていますし。汗かいたら、着替えもあるし。」
と話してくれました。
そうだな、揃いの体育着、いらないな…。
いやあ、囚われていたな。
ほかにも囚われ、あるんじゃないかな…。