■ふと、思い出したできごと。「揃ってないからいいんだ…」
明日からは、学校は新年度ですね。
ちょっと前は、新学期始めは「黄金の3日間」などと言われる、言って見ればクラスの(もっと言うと、「先生の」とも言える場合も含むかも)「規範」を身に付け「させる」みたいな意味合いの時期でもありました。
もちろん、それは子どもたちにとって「よかれ」と思うからに他ならないわけですけれど。善意。
そして、その「規範」の多くは「揃える」ものでもあった気がします。昔の私ももちろん例外ではありません。
今の私は、というと。
揃っていないのが、うれしい、楽しい、心地よい感じ。それが「自然」だからです。
私個人は、その「揃っていない」感じが大好きだから、敢えて「揃えない」方向でことを意識的に進めてきました。例えば、子どもたちが誰かにお礼の挨拶をする時なんかは、学校的には、一斉に
「ありがとうございました!」
って声を揃えて言わ「せる」ことが多いと思いますが。
でも、私が場をつくる立場でいると、
「それじゃあ、あとは、一人ひとり、お世話になった○○さんにお礼の気持ちを伝えにいってね。では解散~」
みたいにしてしまいます。
締まりが無いと言えば締まりがないのかもしれませんが、私は子どもとその方の直接の関わりだったり、何よりお礼の言葉もその子が「自分で伝える、伝えよう」としないとあんまり意味が無い、そんなふうに感じるからです。
だから、体育でも「体育座り」は別に求めないし、整列と「前へならえ」もしません。
「はーい、このへんに集まってくれる?」
で十分。
この辺りの、「揃えなさ」「揃わなさ」は、一定の先生からは指摘される対象になるんですが、それは、まあ、聞いた振り…していましたね笑。
その「揃わない」ことを、公に、ちゃんと外からに人が認めてくれた出来事が以下でした。
うれしかった…そう思ったのを覚えています。
中身ももちろん、だって、これ、別な機会で職員会議の前に全職員の前でも話してくれたんですもの。
これは、極小規模校の私たちの学校の、担任陣みんなと子どもたちの価値観だったから。ずっと全校体育を続けてきて揃えるのは「形や見た目、結果じゃなくて『楽しい』『楽しくするには?』ってマインド」になっていたから。
1年から6年まで20人に満たない、いわゆる「障害」を抱えている子もいながらの小さな学校だから、「揃わない」のはデフォルト。
でも、「揃わなくても揃う」を感じられた、そんな思い出深い出来事でした。
ふと、思い出したので。