■「美味しい」はどうやって教えるのか?
「美味しいってどうやって教えるんですか?」
そんな問いをある方からいただいた。
「美味しい」って極めてパーソナルな感覚な気がする。
そもそも、「美味しい」って言葉は、身近にあふれているけれど、よく考えると「美味しい」ってよく分からない…。
そもそも、私が感じる「美味しい」とあなたが感じる「美味しい」って同じかどうかも分からない…。
同じ味を感じているのかな?そもそも「美味しい」って味なのかな…。
一緒にいる人が
「美味しい!」
って言えば、
「美味しいね!」
ってこたえるのが、一般的な気がする。そりゃあそう、普通は。
それに、出していただいたものを「不味いですね」ということはまず、ない。
となると、「美味しい」は味だけにあらず、むしろ味以外の要素って多い。
美味しい、とされているものを「不味い」というのはなかなか勇気もいるし。
それに「美味しい」は「不味い」を味わってないと、美味しいは分からない…。
私たちの感覚ってとても曖昧なもので、AでもBでも実は「同じ」なのかも知れない。AかBか判別するにはAもBも、そしてCもDも経験していないと、区別なんてできなくて、それに快も不快も分からないんじゃないか…とそんなことを考えたりする機会になった。
「学びは『否定』『批判』とどう向き合うか、なんじゃないかな…」
そんな言葉もなかなか示唆に富む。納得。
「美味しい」「きれい」「楽しい」「正しい」…そんな「こたえ」が期待されるところで、
(え?そうかな…)
と感じた時に、
「私は、あんまりそうは思わないけどなー」
なんて、言えることってものすごく大事なことのように感じます。
そこが「教育」ってことなんじゃないかな…と感じた次第。
なんでも肯定しちゃ、それこそ「不味い」と思った次第。
もっとも、なんでも「否定」しても始まらないけど。
自分で感じる、考える、また感じる、考える、そんなことを繰り返し繰り返しやっていくこと。自分の感覚と対話していくこと、身体性…。
それが「知識」であって、覚えることとか言葉でどうこうは、その後なんじゃないかな、と感じた時間だった。