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本川良です。生活綴方教育に刺激を受け、その後『学び合い』の考え方に出会いました。 「「教室・学校と地域コミュニティ」について考える日々です。「お互いが尊重し合う関係の中でこそ,人はそれぞれの強みを発揮できる。」と考え、まずは足下から緩やかにチャレンジします。ホワイトボード・ミーティング®認定講師、日本イエナプラン教育専門教員資格認定。現在は福島県磐梯町教育委員会教育再デザインセンターに所属しています。

与吉じいさには、およぶべくもないけれど

 授業で、その子を分かるようにさせようとか、できるようにさせようとか、もっと言えば「変えよう」なんて、今は全然思わなくなりました。

 

 思わなくていいんだ、と気が付いた、って感じかな、と今のところ捉えています。

 

 どんな方法だといいか、とか、どんな発問をいつどの場面でしたらいいか、とか何を使ったらいいか、とか。

 前は、指導案を考えるときに、そういうことで随分頭を悩ませたこともあったのですが、それは全て

(なんだ、自分のためだったんじゃん…)

って気がするからです。

 自分が不安だったからなんだな、と。

 

 スムーズに,スマートに授業を行いたい、子どもに「分かった」という気になって欲しい、時間通りに自分の予定をこなしたい…。

 

 もちろん、本当にそう自覚していたわけではなく、その時は「よかれ」と思って必死で考えていたことではあったのですが。

 

 1単位時間の45分や、1単元の時間枠とか、もちろんその中でチャレンジすることも大事といえば大事。

 でも、学ぶってのは、そういう枠の中にすっきり収まるものでは本来ないし、いつその子の

(お?)

って気持ちが起動するかも分からない。そういう子が何人もいるなかで、教師がそれをコントロール仕切って決まった時間で決まったところまでもっていくなんて、たぶん無理。

 

 「海の命」(立松和平・作)の中での、漁師の与吉じいさのことば。

「わしも年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる。」

 

 そんな気持ちだけは、なんとなく分かる気がします。

 

 子どもたちって勝手に、自分で育っていくんだよなあ、って。

 だから、私は、その邪魔をしないように、そしてできれば、彼らにとってのよりよい環境、条件、きっかけを用意できるように、その準備くらいをしておきたいな、と思っているのです。

 

 子どもを変えよう、とか、苦手を克服させよう、とか、そんなことを欲張っていると、かえって邪魔をすることになってしまうな、と今は感じているのです。私は。

 

 そして、そう思えることに、けっこう前向きな希望を感じているのです。