授業で、その子を分かるようにさせようとか、できるようにさせようとか、もっと言えば「変えよう」なんて、今は全然思わなくなりました。
思わなくていいんだ、と気が付いた、って感じかな、と今のところ捉えています。
どんな方法だといいか、とか、どんな発問をいつどの場面でしたらいいか、とか何を使ったらいいか、とか。
前は、指導案を考えるときに、そういうことで随分頭を悩ませたこともあったのですが、それは全て
(なんだ、自分のためだったんじゃん…)
って気がするからです。
自分が不安だったからなんだな、と。
スムーズに,スマートに授業を行いたい、子どもに「分かった」という気になって欲しい、時間通りに自分の予定をこなしたい…。
もちろん、本当にそう自覚していたわけではなく、その時は「よかれ」と思って必死で考えていたことではあったのですが。
1単位時間の45分や、1単元の時間枠とか、もちろんその中でチャレンジすることも大事といえば大事。
でも、学ぶってのは、そういう枠の中にすっきり収まるものでは本来ないし、いつその子の
(お?)
って気持ちが起動するかも分からない。そういう子が何人もいるなかで、教師がそれをコントロール仕切って決まった時間で決まったところまでもっていくなんて、たぶん無理。
「海の命」(立松和平・作)の中での、漁師の与吉じいさのことば。
「わしも年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる。」
そんな気持ちだけは、なんとなく分かる気がします。
子どもたちって勝手に、自分で育っていくんだよなあ、って。
だから、私は、その邪魔をしないように、そしてできれば、彼らにとってのよりよい環境、条件、きっかけを用意できるように、その準備くらいをしておきたいな、と思っているのです。
子どもを変えよう、とか、苦手を克服させよう、とか、そんなことを欲張っていると、かえって邪魔をすることになってしまうな、と今は感じているのです。私は。
そして、そう思えることに、けっこう前向きな希望を感じているのです。