■中3生、卒業おめでとう。そしてありがとう。
3年前、前任校で担任した6年生の保護者の方から、
「無事にみんな卒業しました。」
というメッセージとともに、中学校の卒業式の写真をいただきました。
前任校は、小中併設校。同じ校舎に小学生、中学生が一緒に学んでいます。
そこは、津波で大きな被害を受けた地域で、その学校も震災後にかつてあった小中学校を統合してつくられた新設校でした。
校訓は「たくましく 生きよ。」
転任して3年たつ私にも、こうして節目節目に連絡をいただけること、なんとも嬉しくまた有り難いなあ、と思うのです。
『学び合い』に授業スタイルを転換したあたりから、自分が子どもたちを「変える」なんて不遜だな…と感じるようになりました。子どもたちは、自分の力で内側からわいてくるもので伸びていく、だから、私にできるとは環境を整えること、話を聴くこと、問うこと…そう考えるようになっていました。
だから、なるべく、子どもたちの自己選択と自己決定を大切にする。私の願いとのズレがあるとすれば、そこはできるだけ話し合って一致点を探るように心掛けてきたつもり。もちろん、そうできなくて失敗したことも何度もあるのですが。
どうも、「せんせい」という役割は、ときに自分にスポットライトを当てたくなってしまいます、違うかな…?。「自分がこうしたから」「私の授業で」とかね。「他の学級に負けたくない」とか。若い頃はそんなことも思っていたのです。お恥ずかしい限りです。
でも本当はそうじゃないんだな、と今では分かります。子どもたちは自分で伸びていった、自分を変えていったのですね。それが分かるから、「せんせいです」みたいな顔で前に立つのも、たまに)「先生のおかげです」みたいに言われるのも、ほんと恥ずかしく、どんな態度でそこにいたらいいのか分からなくなります。だから、そんな状況になりそうな場面からは、なるべく逃げ出したくなってしまうのです。
それでも、こうして、数年たっても、お知らせをいただける、そんなことに無上の喜びを感じるんだから不思議なものですね。
彼らの成長に関わったであろう多くの方々の中に、自分も関与できていた部分があるとしたら、やっぱりそれは嬉しい。強い影響を与えないでおこう、おきたいと思ってやってきたことが、結果的に彼らにとって役に立ったのであれば、それは本当に本当に嬉しいこと。
それは目に見えないし、形にも残らないものかもしれないけれど、それだからいいんじゃない?とも思うのです。今は。
中3生、卒業おめでとう。そしてありがとう。
「たくましく 生きよ。」